『ヨーロッパ世界の誕生 ーマホメットとシャルルマーニュー』(アンリ・ピレンヌ著、創文社、1960年8月31日発行)

1935年に初稿が脱稿されたベルギーのアンリ・ピレンヌの遺作、息子さんと高弟によって完成され1937年に発行された。

第一章はイスラム侵入以前の西ヨーロッパ。ローマ帝国は地中海的性格を持っていた。4世紀にコンスタンティノープルが新しく首都となる(330年5月11日 p.10)と強まった。ゲルマン民族侵入前に侵入した蛮族はローマ化した。フン族が到来。東ゴート族パンノニアに逃走、西ゴート族ドナウ川を越えて376年帝国領に来る。ゴート族はゲルマン系。ゴート族の長アラリッヒはローマ皇帝と盟約を結び軍事長官(傭兵隊長)となるが反逆410年に死す。義弟アタウルフは帝妹と結婚する。その弟ファリアはローマ帝国盟約者となり太平洋岸に定住する許可を得る。427年ヴァンダル族のガイゼリッヒ王がアフリカに上陸する。476年プロヴァンス地方が西ゴート族の手に渡り西地中海はローマ帝国の手から失われた。493年より西ローマ帝国の皇帝は、カール大帝の登場まで不在となった。西方は蛮族のモザイクとなり、6世紀初頭には西方で皇帝に属する土地はなくなった。しかし、北部国境地帯とブリタニアアングロ・サクソン族以外は、皇帝の名のもとに統治した。帝国辺境はゲルマン化したが、その他の西方においてはローマ世界は生き残り、コンスタンチノープルのみが首都であった。ゲルマン系言語とラテン系言語の境界線で見積もれる。西ゴート王国テオドリッヒ大王はローマ皇帝の太守であり、ゴート族民は軍隊を構成するのみで、文官はローマ人だった(p.48)。ブルグンド王国(534年フランク王国に併合された)の諸王もローマ化した。東ゴート王国西ゴート王国の君主は裕福であった。蛮族の諸国家は世俗的だった。中世とは違い、司教は官職につかなかった。

ユスティニアヌス帝の時代、アフリカのヴァンダル王国の地域を奪回。シチリアの再征服。ローマ帝国の再興。しかし、ユスティニアヌス帝の没後、ランゴバルド族のイタリア侵攻。680年帝国とランゴバルド族でイタリアを分割。

ゲルマン民族侵入後も土地の所有、年貢、地租などはローマ時代と変わらなかった。ローマ時代の貨幣単位リブラは存続した。ギリシャ語世界がラテン語世界を文明の点で凌駕していた(p.99)。中国、インドからの隊商の到着地シリアがギリシャ語世界で特に活発であった。シリア人が海上運輸業者であった。シリア人の富裕な商人たちは財を築いたあとは田舎に居を構えた。東方貿易は香料、シリアの葡萄酒、中国からの絹、宝石、衣装などの奢侈品のほか、食料品もあった。香辛料が特に多く、パピルスも特徴的。パピルスはエジプトが独占的に供給。油。マルセイユは大きな国際港でときどき疫病が発生した。奴隷も取引の対象であった。戦いで捕虜になった蛮族が多い。

コンスタンティヌス帝が改革したローマのソリドゥス金貨がゲルマン民族侵入当時の帝国共通貨幣。ゲルマン民族が征服した西方世界、ギリシャ的東方世界ではともに帝国の金本位制を存続した。国王への税金は貨幣で納められた。

ゲルマン民族は新しい思想をもたらさなかった。言語は、アングロ・サクソン族を除いてはラテン語を存続させた。文化は衰頽した。教会はロマニズムの連続性を最もよく代表している。修道性の発達があった。教会は民衆に親しみやすいラテン語を用いるようになった。社会は俗人的であった。国王が教会に従属することはなかった。社会が教会に依存することはなかった。ゲルマン民族は帝国の西半分における皇帝の統治を破壊したが、ブリタニア以外ではローマ的世界が生き残った。ブリタニアでは新しい世界が出現した。

ローマ帝国ペルシャ帝国が争っていた間にマホメッドの布教が進んだ。イスラムの侵入のスピードは速く、アラビア人は信仰を持っていたためにローマ化しなかった。逆に、アラビア人はどこを征服しても自分たちが支配者となった。シリアやエジプトがイスラムに征服され、アラビアの地中海の沿岸地方に新しい世界が出現した。681年アラビア軍は大西洋岸に達する。689年カルタゴ陥落、712年イスパニアの征服を達成する。730年代にはフランク王国を侵略する。カール大帝との戦い。876年、877年回教徒のローマ平野への侵攻を防げず。

7世紀後半に西地中海は商業海運・貿易には使えなくなってしまった。8世紀は東西間の海運がなくなった。パピルスが姿を消す。香辛料は716年以後の文書に見られない。絹や葡萄酒がなくなる。金が減少。ユダヤ人を除いて、商業商人がいなくなった。ベネツィアは特殊。5世紀のアッティラ遊牧民がアキレイアを攻撃したときに逃れた人々が住み着いて始まる。

フランスはメロヴィング王朝からカロリング王朝へ。この移り変わりの間、一世紀に及ぶどん底の混乱時代があった。7世紀以降、商業の衰頽で都市制度が姿を消した。カロリング家のピピンは宮宰として支配。教会、東ローマ帝国、カロシング家のみつどもえピピンの息子カール大帝は、800年までに西欧キリスト教世界のほとんどを支配した。カロリング帝国=カールの帝国が中世の開幕となる。古代の地中海世界との断絶が生じた。逆に低地諸邦が海運で活気を呈する。9世紀にはスカンディヴィア人の文明が発達した。しかし、ノルマン人(ヴァイキング)に掠奪される。カロリング王朝の登場とともに貨幣の単位も変わる。カロリング王朝時代には公的な租税というローマ的な観念がなくなり、貨幣鋳造業者もいなくなる。職業的商人はいなくなった。市場は近くの農民と行商人、船頭だけが訪れた。ユダヤ人が特権をもって大きな商業(金、銀、奴隷、香辛料を扱う)をしていた。

中世には商業が衰頽してしまい、土地が経済生活の本質的な基礎になった。葡萄酒も確実に手に入れるにはブドウ園を手に入れて自分でつくるしかなくなった。修道院は自給自足世界となった。封建制では軍事的貴族階級は非生産的。土地をもつ農民は増大する賦役と貢租に圧迫される。国王の財政上の基礎は所領であった。メロヴィング王朝は世俗的であったが、カロリング王朝は神の恩寵による。国王官房は聖職者で占められるようになった。中世の特徴は国家を影響下に置く宗教階層である。国王は臣下から軍事的奉仕を受ける代償として封(所領)を与えた。国家は国王と封臣の契約関係に依存するようになった。

8世紀以前は古代の地中海経済があった。8世紀以降地中海は閉鎖され、商業は消滅した。9世紀前半帝国の最北部=低地諸邦は海運で活気を呈していた。この地方ではローマ帝国の時代からブリタニアとの海上貿易を行っていたローマの辺境であった。メロヴィング王朝時代にも栄えていた証拠として多数の鋳貨が発見されている。しかし、カロリング王朝時代には、フリーセント人による地中海と関係ない新しい商業圏ができた。9世紀はヴァイキンガーの文明が発達した。カロリング王朝では貨幣制度も断絶した。ソリドゥス貨幣は消滅。ローマ時代のリブラに替わって、リーブルが採用された。カール大帝は度量衡も新しく定めたが、829年には各地方で区々な度量衡が使われたと報告されている。貨幣を当初は王朝発行通貨としたが、各都市で鋳造されるようになった。920年には教会の一部は教会の刻印を押した貨幣の鋳造権を獲得した。