『大英帝国の歴史 上』(ニーアル・ファーガソン著、中央公論新社、2018年6月10日発行)

イギリスは、17世紀央、スペインやポルトガルに遅れて帝国建設に参入した新参者であった。最初は、スペインやポルトガルの海外基地を襲撃して金目の物を奪い取ることからスタートした。イングランド王室は17世紀には海賊に私掠船としての許可を与えて海賊行為を合法化していた。

オランダ東インド会社は1602年会社組織として設立。イギリス東インド会社は1600年9月にスタートしたが航海毎に出資者を募る方式であり、恒常化したのは1650年以降。イギリスは1652年から1674年の間オランダを相手に3回の戦争を行った。しかし、オランダの財政の前に不成功となる。1688年の名誉革命でオランダとイギリスが経済的に合併して、イギリスの財政が近代化される。

1657年イギリスとフランスの7年戦争で、イギリスはフランスの海外領土を切り取り。

インド経営は18世紀後半ヘースティングス総督の時代にはうまくいかなかったが、その後ムーガル皇帝はイギリスの庇護を求めるに至る。

第2章は植民地(カリブ海諸国)と労働力、移民(米国)、流刑地(オーストラリア)、カナダ(植民地、アメリカ独立反対派の移住地)の話である。これらの国はイギリスからの移民先として発展した。過去にイギリスほど多くの移住者を出した国はないようだ。黒人奴隷とアメリカの自由のための独立戦争は矛盾した。イギリス軍はアメリカ独立戦争に勝つ可能性もあった。しかし、本国の中にアメリカへの同情が多く、全力で戦わなかったようだ。アメリカ独立戦争に対する反省によって、カナダの自治政府が認められ、英国連邦はできた。オーストラリアはイギリスの流刑地として発展した。現地人アポリジー二やインディアンの多くは移住者が持ち込んだ病原菌で死んだ。

第3章使命は、キリスト教の布教に関する活動の話である。主にアフリカのリビングストンの活動とインドへの布教。アフリカでリビングストンは超人的な探検と布教・商業への志向を示したが、彼の生きている間は失敗に終わった。主にマラリアと現地人の敵対的な態度による。現地に送られた宣教師からは多数の死者が出た。しかし、マラリアへの薬キニーネ、政治的支配などもあり現在ではかなり布教が進んだ。対照的にインドでは、大反乱がおき、1858年11月ヴィクトリア女王の布告によりイギリスの信念を、他の臣民に押し付ける権利と希望が否定された。

第4章天の系統は、イギリスのインド統治方法に関する話である。ヴィクトリア期(19世紀後半)、数千人のイギリス人が200年近く巨大なインドを支配した。インド高等文官は1858年から1947年まで1000人を超えることはほとんどなかった。その試験は歴史上もっとも難しいものだった。イギリス領インドはビルマから西パキスタンまでまたがる広大な地域であった。装甲艦による海上覇権、電信ケーブル網、鉄道。1851年に英仏海峡に海底ケーブルを敷設。1866年大西洋横断ケーブル。インド人の職員が官僚機構を支えていた。人種間の区切りと対立があった。インドで長く暮らすイギリス人はインド人への優位を保ちたいため、自由主義のイギリス人支配者が平等政策を打ち出すとイギリス人同士での間の対立もあった。カーゾンのような古いイギリス派の統治者もあり、対立は複雑であった。

ファーガソンは反語、比喩が多く、文章が回りくねっている。簡潔・直截でないので読んでいて愉快でない。文章に対する好みの問題ではあるが。