『岸信介 ―権勢の政治家―』(原 彬久著、岩波新書、1995年1月20日発行)

石橋湛山の65日』に、石橋湛山が組閣名簿をある人(昭和天皇)に提出したとき、深刻な表情で、岸をなぜ外務大臣にしたのか?彼は先般の戦争に対して東条以上の責任がある、と述べた。」という話がでており、初めて関心を持って調べてみようと思い、本書を読む。

東大法科で首席でありながら、商工省へ進み、商工省を出て満州国に行き、星野直樹に次ぐ実質ナンバー2として、産業開発計画の実行に従事する。その実質的な内容は不明ながら、満州国で人脈を築き、日本に戻る。

第一章で岸の生い立ちや一族のことを解説しているが、佐藤一族の立身出世志向とそのために一族の兄弟・姉妹・従兄弟・従姉妹の教育にかける執念は凄まじい。長州という土地柄もあるかもしれないが、教育の大切さが伝わる。 

岸は商工官僚として国家による経済統制を志向している。この国家主義者的な考え方の根幹はどうやら北一輝大川周明の影響をうけた大学在学中から培われたものらしい。

官僚としてのキャリアは農商務省ないし商工省時代(大正9年から昭和11年までの16年間)と、満州国実業部に着任してから商工次官就任のため帰国するまで(昭和11年から同14年)の二つにわけられる(p.37)。

第一の時期・大正15年にアメリカ、イギリス、ドイツを半年視察し、アメリカとの経済力の差に驚くが、ドイツの国家統制化に活路を見出す。これは、昭和5年のドイツの産業合理化策の(再)調査、浜口内閣の産業合理化運動に結実する。強権的国家体制による自由競争の否定、コスト低下の2つの指導精神によるという。昭和6年の需要産業統制法発布に力を注ぐ。軍部の注目するところとなり、満州事変以降の岸と軍部と密接な関係をもたらす。

昭和10年5月工務局長となるが、昭和11年10月商務省を辞して満州国に渡る。軍部の岸待望論がある。板垣征四郎から満州の産業経済の問題を岸に任せるとの言質をとる。昭和12年7月産業部次長(実質トップ)、兼総務庁次長となる。総務庁長官は大蔵省出身の星野直樹満州国産業開発5カ年計画の実行を進める。昭和12年7月の盧溝橋事件からの日中戦争開始で局面が変わり、満州国が日本の軍需産業発展の戦略基地となる。

昭和14年10月安倍内閣時に商務省次官として東京へ戻る。在満3年で立派な政治家に成長する。軍関係者との交誼を取り結んだ。東条との関係、巨額の政治資金。満州国官僚にシンパを得る。周りに惜しげもなく金を与えた。アヘンの密売にるところが大きいといわれる。満州を去る前夜友人たちに濾過器論を語る。

国防国家の実現へ。第2次近衛内閣での入閣を「抜き身を引っ提げて登場したような感じ」を持たれるとして辞退する。小林商工大臣と対立して次官をやめる。昭和16年10月東条内閣の商工大臣となり、産業分野の総力戦体制の確立強化を図る。 昭和18年11月商工省と企画院を廃止・統合し、軍需省の新設となる。その際、大臣から軍需次官兼国務大臣に降格となる。19年6月のサイパン陥落に際して「早期終戦」論を語り、東条と決定的に対立する。東条内閣の閣内不統一で総辞職を招く。

獄中日記は思い迷う姿が描かれており、興味深い。米ソ冷戦の深刻化とGHQ内のG2とGSの内戦に伴い、G2からマッカーサーに岸釈放勧告が送られる。

昭和23年12月24日釈放、実弟佐藤栄作官房長官公邸へ向かう。日本再建連盟を作るが、27年8月の吉田首相の抜き打ち解散で選挙に惨敗・挫折する。28年3月のバカヤロー解散で自由党から立候補して当選する。保守合同に向かう。

自民党第2代総裁選で、1位となるも過半数を超えず、石橋政権の外相就任。石橋の病気に伴い昭和32年初頭に首相となる。

安保改定に取り組む。

最初の読後感として、岸信介は非常に仕事のできる人物というのが第一印象である。但し、国のために企業なり私人の権利を制約するという国家による統制経済の考え方には同意できない。結局のところ国家統制は戦争遂行のために利用されたわけだし、また闇の中で支配層として利益をむさぼった疑いが濃厚だ。今の日本では通用しない人物ではないだろうか。