『キッシンジャー回想録 中国(上)』(キッシンジャー、岩波書店、2012年3月28日発行)

第二次大戦後、米中対立となる。朝鮮戦争(1950年6月25日攻撃開始、1953年7月27日休戦合意)、第一次台湾海峡危機(1954年1月18日大陸側が大陳島と一江山島に侵攻~1955年休戦)、第二次台湾海峡危機(1958年8月23日沖合の島への砲撃)で、米中対立が続く。ところが中国はソ連と対立するようになった。

1969年夏中国とソ連の間で戦争の可能性を示す兆候が高まる(p.234)。ウスリー川珍宝等(ダマンスキー島)でソ連軍と人民解放軍が衝突。中ソ国境沿いのソ連兵は100万人を超える。ニクソンは中国よりソ連が危険という画期的な主張を表明し、中ソ衝突では可能な限り中国よりの態度をとるように指示し、米国は自らの国益で立場を決めることを警告する。緊張は10月にクライマックスとなり、毛沢東は中国の最高首脳部の疎開と、林彪防相は軍を「第一級戦闘準備」状態とした。そこで、米中接触を開始する機会が生まれた。毛沢東は米中接近に方針を転換しつつあった。

1970年12月8日周恩来からキッシンジャーのオフィスに書簡が届く。パキスタン経由。1971年4月毛が東京で行われた世界卓球選手権に出場した米国選手団を招待することを決めて、中国人選手が試合の機会に招待した。ピンポン外交。1971年キッシンジャーチームが北京へ秘密訪問。

台湾とベトナムをどのように棚上げするかが課題だった。1971年には米国は北京を中国の首都と認めていなかった。インドシナでの戦争が解決したら台湾から米軍を撤退するとした。

1971年7月15日秘密訪問と米国大統領招待が発表される。

秘密訪問時点では、北京も台北も「一つの中国」の原則に同意し、台湾当局は独立の動きを禁じていた。米国にとっては「一つの中国」の原則に同意することではなく、統一中国の首都として北京を承認する方法であった。

1972年2月21日ニクソンの中国訪問。

上海コミュニケ

1971年10月2回目の訪問はコミュニケ作成を目的とする。

キッシンジャーが持参した草案はボツ。毛沢東の指示で双方の主張を妥協のない言葉で並べ、最後に共通の立場を示すものとなった。

―いずれの側も、アジア・太平洋地域における覇権を求めるべきではなく、他のいかなる国家ないし国家集団によるこのような覇権樹立の試みにも反対する。

台湾については、米国は海峡の両側の中国人が中国は一つであり、台湾は中国の一部であると主張していることを認める。米国政府は中国人自身による台湾問題の平和的解決に関心をもつことを確認する。

上海コミュニケは、その後数回改められているが、大枠は現在まで変わらず米中の台湾問題の枠組みを規定している。今後、台湾という矛盾がどのように解決されるか。