『アフガン侵攻 1979-89 ソ連の軍事介入と撤退』(ロドリク・ブレースウェート著、白水社、2013年2月10日発行)

ソ連第40軍と航空部隊は1979年12月25日アフガニスタンに侵攻を開始し、1989年2月までに主力軍は撤退を完了した。

1973年7月ダウドは共産主義将校の支援を得て、無血クーデターによって国王を退位させる。ソ連はダウドを支援し友好関係を結ぶ。しかし、徐々に西側に傾斜する。

1978年アフガニスタン人民民主党PDPAによる共産主義クーデターが起きる。PDPAはパルチャム派とハルㇰ派の争いで分裂状態だったが、ソ連からの圧力で統合しクーデターを起こし、ダウドを殺害する。ハルク派はタラキとアミンが指導者であった。

1979年3月ヘラートで反乱があり、アフガニスタン政府はソ連に軍事介入を依頼する。ソ連は武力介入は行わずに、顧問、軍需物資、その他でアフガニスタン政府を支援すると決定する。タラキはソ連に何度も支援を依頼し、1979年夏までには事態が動き始める。アミンとタラキの対立があり、アミンが徐々に権力を掌握する。ソ連指導部はタラキを守ると約束する。結局、アミンはタラキを殺害する。

アミンはアメリカに傾斜しているとの報告もあり、1979年12月12日ソ連政治局はタラキ殺害でアミン排除を決める。12月26日カブールのタージ・ベック宮殿にいたアミンを急襲して排除する。アンドロポフはパブラフ・カルマルを革命委員会議長にする。

その後、ソ連軍はアフガニスタン政府軍を支援して反政府軍ムジャヒディンと戦う。ムジャヒディンは一つのグループではなく、様々な敵がいた。複雑な関係だったのはパンジシール渓谷を防衛したアマフド・シャー・マスードである。ムジャヒディンはパキスタンアメリカの支援を受けていた。

侵攻してから割と早い時期から撤退を考え始めたが、歴代の指導部は事態を収拾できなかった。ゴルバチョフが1985年に政権の座に就くと撤退に向けて動き出した。

この間、アフガンで勤務した若者の数は大よそ62万人。公式な死者数は1万5051人、負傷者は5万人以上、1万人以上が障がい者となった。ベトナムでのアメリカ軍の戦死者は5万8260人、行方不明者多数なので、ベトナム戦争より規模は小さい。