『ヨーロッパ冷戦史』(山本健著、ちくま新書、2021年2月10日発行)

北大西洋条約。1949年4月、アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、イタリア、デンマークノルウェーポルトガルアイスランドの12か国で調印。北欧から地中海まで相互防衛の軍事同盟。北大西洋条約機構NATO)となる。1950年の朝鮮戦争を機に、東ドイツが西ドイツに武力侵攻の可能性を暗示させられて、50年12月60師団規模のNATOの統一軍創設が決まる。欧州連合軍最高司令部設置。52年2月NATO軍を96師団に拡大する中期防衛計画。(実際はそんなに増えなかった)。ギリシャとトルコが加盟。

53年1月アイゼンハワー政権はニュールック戦略=アメリカの核の傘ソ連の攻撃に各で反応する。通常戦力は大きくしない。米国の派遣軍は削減したい。55年パリ協定で西ドイツが主権を回復、NATOに加盟した。15番目。西ドイツの再軍備NATOの枠内となる。55年5月ワルシャワ条約で東の軍事同盟成立して、東西の同盟ができる。

57年12月NATO理事会で核共有を承認し、イギリス、イタリア、トルコにミサイル配備、アイゼンハワー政権末期までに500発の核弾頭がNATO諸国に配備された。NATOは通常戦力の不足を核に依存した。

ドゴールはアメリカとNATOに批判的。66年フランスはNATO軍事機構から脱退すると宣言。またフランスに駐留する外国軍の撤退も要求(フランス問題)。

60年代NATOは柔軟反応戦略を採用した。62年5月表明、67年5月NATOの戦略となる。従来のように核で大量報復即応ではなく、当初は通常戦力で柔軟に対応する。ワルシャワ条約機構軍に対応するのに、通常戦力の増強が必要となる。反対していたフランスが脱退して成立。アメリカは他の加盟国を安心させるため戦術核兵器を67年までに6,000発に増やした。(旧式)

67年12月NATOの役割見直し。抑止とデタント。通常戦力の縮小を模索。

70年代ユーロミサイル危機。ソ連のSS-20新型中距離ミサイル配備で均衡が破れる。79年12月NATOは新型巡行ミサイルの配備と、ソ連への軍縮提案を決定する(二重決定)。サッチャー反共主義でミサイル刷新を主張、また、軍縮に反対する。

83年10月NATOは二重決定に基づいて地上発射巡航ミサイル464基、パーシングⅡミサイル108基の配備決定。反核抗議集会を無視。83年12月イギリスと西ドイツで実戦使用可能となる。

85年ゴルバチェフがソ連の指導者となる。86年4月チェルノブイリ原発事故発生。86年レイキャビクでゴルバチェフは中距離ミサイル全廃を受け入れると表明。87年12月中距離核戦力全廃(INF)条約調印。潜水艦・水上艦艇発射ミサイルは対象外。

89年までにNATOでは短距離核戦力(射程500キロメートル以下)の近代化問題で対立が生まれる。ソ連の通常戦力に対抗するため。サッチャーの短距離核近代化賛成と西ドイツの反対。89年ブッシュ政権NATOの宥和を優先し、短距離核削減と通常戦力削減(CFE)をセットにする。1989年5月NATO会議はCFEで米国の派遣軍を減らすことに合意。ゴルバチョフも合意して1990年にCFE条約締結。80年代末デタントの時代。

1989年秋、ベルリンの壁が崩れる。90年11月ドイツ統一。統一ドイツのNATO帰属が受け入れられる。

NATO改革:ロンドン宣言:防衛的同盟、紛争の平和な解決、武力の先制不使用などを謳う。ソ連に対する西ドイツの経済支援。9月12日ドイツ統一条約成立。