『1989ベルリンの壁崩壊後のヨーロッパを巡る闘争(下)』(メアリー・エリス・サロッティ著、慶応義塾大学出版会、2020年2月28日初版第2刷発行)

1990年3月18日東ドイツで、戦後初めて自由投票が行われた。

1990年2月10日~11日モスクワで、ゴルバチェフはドイツ統一はドイツ人が決めるべき問題とコールに承認。

統一ドイツ、特に東ドイツ領域の安全保障問題、NATOか中立かなど、東ドイツ中流ソ連軍の扱いが重要となる。また、統一のための法的枠組みは、西ドイツの基本法第23条を使うこととした。基本法東ドイツの条約義務を両立させる。東西ドイツの通貨・経済統合、DMを東ドイツ通貨とする。

3月18日選挙でコールが勝利。1990年7月1日経済・通貨統合を設定する。

EC加盟国の不安。ミッテランを味方につけて、4月28日のEC臨時首脳会談で、ドイツ統一計画を承認する。コールはミッテランの通貨統一に協力し、ヨーロッパ統一市場へ。

1990年後半、コールは東ドイツからのソ連軍撤退のためにゴルバチェフと交渉。ゴルバチェフの任期の不安定性がリスク。飴は資金援助。ゴルバチェフは汎ヨーロッパの安全保障を望む。軍や政敵(ファリン、ソ連軍元帥アフロメーエフ、国防相ドミトリー・ヤゾフ)の反対が多くなり、指導力の危機が迫る。指導力を落とさないように配慮する必要がある。5月に50億DMの信用供与を約束。

米ソ首脳会談は5月末。その前に米独対策会議で首脳会談の戦略を練る。会談ではゴルバチェフはNATO拡大に反対するが、ヘルシンキ原則の尊重を認める譲歩をする。しかし、ドイツに関する発表はなにもなし。

7月コールがモスクワを訪問し、ゴルバチョフの首脳会談の予定。6月25日西ドイツは東ドイツに駐留するソ連軍に12.5億DMを払い、ソ連兵と家族は東ドイツマルクをDMに2対1のレートで交換できるとする。東ベルリンの指導者はコールに反対したが、ワシントンの説得で理想主義を弱める。アメリカはゴルバチョフに資金援助はしない。

7月4日からNATO首脳会談でNATO改革を発表する。7月2日からのソ連共産党大会はゴルバチョフが乗り切る。7月14日コール他の代表団一行はモスクワに向けて出発。会談でゴルバチェフが統一ドイツがNATO加盟国になることを認める。3~5年でソ連軍が撤退し、西ドイツは撤退の財政援助する。東ドイツ核兵器は配備されないなど。ドイツ統一ソ連の承認を得た。

1990年8月初旬、イラクのクェート侵略。コールには、ソ連が他の3か国と共に1945年から有している占領統治関する権利を放棄する協定、1994年までに東ドイツ駐留ソ連軍が撤退する目的の協定、を結ぶことが残っていた。9月10日110~120億MDを提供するがゴルバチョフは満足せず、次に120億DM+30億DMの無利子ローンを提案して妥協する。9月12日協定の調印式。10月3日政治的かつ法的統合を完了する。

本書は、ヨーロッパの現代史の中ではトップクラスの読み応えがある。1989年11月9日に誰も予期しない形でベルリンの壁が崩壊してから、1990年10月3日に東西ドイツが統一するまで。この時、現在のウクライナ戦争に至る枠組みができたといえる。

東西ドイツの統合は、沖縄返還と比べたら、桁違いの難題だが、それを1989年11月から1990年7月までの間の交渉で実質的に決着させた、コール首相の政治力、交渉力は驚異的だ。しかも、これをすべて外交交渉で成し遂げたのがスゴイ。ソ連に対して多額の援助ができた経済力の裏付けもあったのだが。