『分断の克服 1989-1990―統一をめぐる西ドイツ外交の挑戦』(板橋 拓己著、中公選書、2022年9月10日発行)

1989年11月9日のベルリンの壁崩壊から1990年10月3日のドイツ統一の期間における西ドイツの外交について。外務大臣を務めたゲンシャーの役割を中心に分析。サロッテの『1989』と比較しても劣らない良書だと思う。

本書のメインの趣旨とは異なるが、ベルリンの壁が崩壊するまでの東ドイツの人口の流出と体制崩壊の箇所が一番面白かった。

ゲンシャー外交の要は全ヨーロッパ安全保障・欧州安全保障協力会議(CSCE)で、1975年のヘルシンキ最終文書。ゴルバチョフの「ヨーロッパ共通の家」構想とも共鳴。

1985年3月11日ゴルバチョフソ連共産党中央委員会書記長になる。産軍複合体の解体でソ連復活を目指す。「ブレジネフ・ドクトリン」を放棄、ワルシャワ条約機構加盟国が社会主義体制から離脱を試みてもソ連は武力介入しないこととなる。

1987年ダボスでゲンシャーは「ゴルバチョフを真剣に受け止めよう」と演説する。

1987年12月中距離核戦力(INF)全廃条約にゴルバチョフレーガンが調印。

短距離核戦力(SNF)軍縮の課題。ランス・ミサイル近代化問題が残る。

1989年3月ハンガリーは西側からの借款を得るためジュネーブ難民条約に加盟。1989年5月オーストリア国境の鉄条網撤去開始。9月10日から同国に滞在する東ドイツ市民の西側への出国を認める。1989年夏から秋に東ドイツ市民2万人がハンガリー経由でオーストリアに出獄したと言われる。

チェコスロバキアは、ハンガリーとの国境を封鎖した結果、プラハの西ドイツ大使館に難民が押し寄せた。ワルシャワでも似た状況となる。9月30日4000人から6000人の東ドイツ市民がプラハの大使館から特別列車で東ドイツ経由で西ドイツに向かう。その後チェコは国境を開放。ポーランドからも東ドイツ市民が西ドイツへ向かい、東ドイツ政府は正当性を失う。

1989年11月28日コールの「10項目」発表。統一ドイツへの駆け引きが始まる。そこから「2+4」の枠組みが成立する。10項目には、タイムスケジュール、NATOポーランド国境について言及無し。サッチャーは当初はドイツ統一を批判・拒否する。サッチャーのドイツ観はステレオタイプ。二つの大戦のドイツの役割とナチ批判。イギリス外交はドイツ統一での勢力バランス喪失を懸念する。ミッテランはヨーロッパ統合の枠内でドイツ統一を期待する。

1990年1月には東ドイツの存続は無理なことがはっきりする。

1990年2月オタワで「2+4」が6か国外相のコミュニケとして発表される。

冷戦後の欧州安全保障問題=NATOの東方拡大問題。

ワルシャワ条約機構NATO軍事体制のうち、ワルシャワ条約機構が解消されたのだから、それに代わる現実的な体制を作らなければ、NATOの東方拡大をさけることはできないのは当たり前だ。ゲンシャーのCSCE構想は、非現実的な夢想に終わったわけだが、ひとつのヨーロッパを現実化するまでの時間の余裕がなかったということなのだろうか。そもそも無理だったのか。