1791年議会が合衆国銀行設立に同意。期間20年。1809年に認可延長拒否で消え去る。
1816年再び第二合衆国銀行設立。1832年ジャクソン大統領の認可延長拒否で州法銀行に移行。その後廃業。
1861年南北戦争。1863年国法銀行法成立。財務省に国法銀行設立認可と監督権付与。ドル紙幣のデザイン統一化。州法銀行と国法銀行の併存となる。現在まで続く。1890年に銀行の数は8000行。脆弱な金融制度。金融パニックの繰り返し。
南北戦争後1890年代中ごろから1906年までの経済成長率は年率7.6%。1907年米国の経済は大きな活況だった。1906年のカリフォルニア大地震で景気拡大の期待が崩れた。1906年の地震の影響でNYSEの時価総額は約12.5%減少した。資本が不足し、貸出金利が高くなり、貸し渋りが始まる。何か悪いことが起きるのではないかという不安が広がった。
米国で破綻または営業停止した銀行数は1903年52行、1904年125行、1905年80行、1906年53行。
1906年9月のピークから1907年2月末までに全上場企業の株価指数が7.7%下落。3月中旬数日にわたり9.8%下落。4~5月は3%下落。ビジネスのファンダメンタルも見通しが悪くなる。
セオドアルーズベルトの進歩主義。反トラスト措置。暴利を貪る資産家批判。夏から秋に株式市場下落。パーフェクトストームの前の暗雲が広がる。
ハインツ兄弟の株価操作失敗で、1907年10月14日グロス・クリーバーグ証券会社が倒産。10月17日オットー・ハインツ商会が倒れる。マーカンタイル・ナショナル銀行の危機。10月19日までの3日間で預金残高の20%が引き出された。アウグスタス・ハインツは銅、チャールズ・モースは氷と蒸気船で財をなし銀行を保有。この二人の関係する銀行が取り付けにあう。ニューヨーク資金決済機構(NYCH)が支援する合意。
ニッカーボッカー信託会社。社長のチャールズ・バーニーの辞任。10月21日ナショナル・バンク・オブ・コマースが同社小切手の決済を行わないと発表。取り付けが始まる。22日営業停止。コール市場の資金が枯渇、株価は1900年来最安値に沈む。
アメリカ信託会社への預金取り付け。絶対絶命。10月24日はピアポント・モルガンの主導で救われる。
25日証券取引所では各信託会社が融資回収に走り、資金不足となる。現金は貸金庫に溜まる。26日(土)は乗り切る。
10月28日月からNYCHクリアリングハウス証書を発行開始。有価証券担保、担保価値の75%上限、金利6%。表面上は平静になる。しかし、ニューヨーク市が破産の危機にあった。JPモルガン他が市債を引き受けるなどで救済。
11月2日ムーア・シュレイ破綻の危機。独立系鉄鋼会社TC&Iの株を担保に多額の借り入れ。一方、アメリカ信託、リンカーン信託の危機が続く。JPモルガンは11月2日夜から信託会社社長たちを閉じ込めて同業2社の救済の契約をさせる。JPモルガンはムーア・シュレイ救済策を立てる。USスチールによるTC&Iの買収。
11月5日(火)平穏な日々が始まる。
1907年暴落で1908年は経済活動低迷。1908年1月銀行の支払い停止解除。
USスチールは1901年鉄鋼王カーネギーが所有していた事業体を含む多数の鉄鋼会社の統合で創設。1907年までに全米鉄鋼生産能力の6割に達し、企業としても世界最大。
1907年の金融危機による不況は08年6月底打ち。09年末までに危機前の水準に戻る。
1913年12月連邦準備法が成立。
1929年10月株価大暴落。フーバー政権のアンドリュー・メロン財務長官の清算主義で大恐慌となる。
1932年フランクリン・ルーズベルト大統領が就任。介入主義に戻る。1933年グラス・スティーガル法成立、商業銀行と投資銀行を分離する。(1999年の破棄まで続く。)