山一証券の起源は甲府柳町の商家出身の小池国三が明治30年兜町で興した小池国三商店。国三は甲州財閥若尾逸平の秘書からスタート。当時の成長産業は電力、鉄道。甲州人が顧客となる。明治40年小池合資。明治42年国三は三か月の米国視察に。日本のモルガンを目指す。
大正5年、東大卒の太田収が小池合資に入社。大正6年小池合資は小池銀行と杉野喜精を代表とする山一合資に分割。積極的性格。
欧州大戦開戦大正6年、9年は戦後恐慌始まる。大正9年富士山の頂上から琵琶湖の湖底への大暴落。12年関東大震災。山一・杉野は社債引き受けで力をつける。大正14年間には国民所得4倍となる。産業の重化学工業転換があった。
大正15年資本金500万円の山一證券株式会社となる。太平洋戦争中の18年上期まで債券取引の利益が多かったようだ。昭和3年秋緊縮政策へ転換し、手持ち社債の値下がりで危機となる。
昭和9年から13年の株式公開会社数の半分を山一が単独で売り出し。昭和10年太田が社長となる。相場師。短期取引。太平洋戦争前の鐘紡大投機戦。昭和12年1月から鐘紡株を買い進めたが、7月の盧溝橋事件で暴落。鐘紡大型増資をあてにしていたが実現せず。昭和13年5月4日太田辞任、28日夜青酸カリで自殺。
昭和20年終戦。投信再開。4大証券時代。昭和22年太田の衣鉢を継ぐ大神一が社長となる。川崎製鉄の設備拡張資金を助ける。旭硝子の投機戦。三菱化成工業の3分割で旭硝子の株が発行されたが、ドッジ不況で値下がり。空売りされた。大神=山一は、これに買いで立ち向かい勝つ。相場に勝つ味を覚えた。
最後の相場師山瀬正則。昭和31年7月スエズ国有化の第2次中東戦争で船不足となる。山瀬は船株を買う。石井久は長期的には船会社の株は余ると考えて売りにでる。船株は暴落して石井の勝ち。
山瀬投信運用部長。大量推奨販売。推奨販売した株が、客の利食い売りで戻ってくると証券会社が引き取るので赤字になる。38年山瀬は山一を去る。
38年ケネディショック。投信募集額が集められず自分で買って抱え込む。結果、赤字の手持ち株が増える。38年山一の利益は300万円。39年35億円の赤字。損のある株を関連会社に一時的に預けるという経理操作(疎開)を行う。39年11月大神社長辞任。日高輝の再建請負社長。
39年過剰株式買い取りのため日本共同証券、日本証券保有組合ができる。両社で4,223億円を凍結するが市場は好転せず。
40年5月22日山一証券債券策の報道。24日(月)から取り付け騒ぎ。28日夜日銀氷川寮で田中角栄他が集まり、山一特融を決定。
41年旧山一に借り入れ負債を残して、新山一が発足。新旧分離方式。日高による再建。
40年7月から株価は上昇に入る。44年9月日銀特融を完済。日高辞任。植谷久三社長となる。山地主の家系。山一證券の中に敵を作り、派閥で社長を選ぶ。
昭和55年横田良男社長。永田ファンドが生まれる。正式契約なしの利益保証&一任勘定。
1985年(昭和60年)9月プラザ合意でドル高を修正。日本にとって米国は最大の輸出国で輸出総額の3分の1は米国向け。米国の赤字の3分の1は日本との赤字という時代。日本は円高政策へ、内需拡大へ日銀の超低金利&金融緩和を続ける。過剰流動性が生まれる。
昭和60年9月1ドル=216円だったが、62年2月には153円。
バブル時代。山一は企業の資金を取り込むため走る。特金・ファントラ運用。原因は昭和55年12月国税庁通達。簿価分離「特定金銭信託を通じて取得した株式、債券は簿価分離できる」。
證券会社が運用する特金を「営業特金」という。これが日本の株式市場をカジノに変えた。証券会社が金を集め、自社内のファンドで売り買いする「ブロックトレーディング」。簿外赤字を生む。野村は営業特金を禁止。
1988年(昭和63年)。山一最後のドン行平次雄。三菱重工問題。
1989年5月から1990年(平成2年)8月まで公定歩合を5回引き上げ、2.5%から6%に。株の暴落局面。山一は平成2年6月永田ファンド処理は引っ張ることとした。バブル崩壊の大津波から逃げない決定で命運が決まる。平成1桁時代はバブル整理の時代。
平成9年8月。野澤正平社長となる。
11月22日山一自主廃業報道。11月24日取締役会で自主廃業を決定。
1994年(平成6年)6月1ドル99円、7年4月79円75銭となる。日本政府が円高防衛でドルを買うが、円をだぶつかせ、金融を緩める結果となる。
平成17年1月26日最後の債権者集会。