『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(J.D.ヴァンス著、光文社、2013年3月20日発行)

連邦政府の住宅政策は家を持つことを国民に進めてきたが、家を持つコストは大きい。ある地域で働き口がなくなると、家の資産価値が下がって、その地域に閉じ込められてしまう。ミドルタウンはアームコによってできた。

ブルーカラーの仕事は良くないと思っていて、自分は働かないのに働いているという。

政府は生活保護をもらって何もしていない連中に金を払っている。

工場に依存するコミュニティは脆弱。工場がなくなると教育レベルが高いか、裕福か、人間関係に恵まれている人は去る。しかし、貧しい人が取り残される。

大学に進むには巨額の金がかかる。

海兵隊の新人訓練。「言い訳をしない」「全力を尽くす」を学ぶ。

オハイオ州立大学がコロンバス発展の後押しをする。

イェールの奨学金は貧乏な学生に篤い。しかし、ロースクールの95%以上は中流階級かそれ以上の出身者で占められている。

アイデンティティを考える。

成功者は違うルールでゲームをする。社会関係資本。イェールのネットワーク。

逆境的児童期体験で心の中に悪魔が生まれる。

ヒルビリーにとっては、本当の問題は家庭内で起きている。

『政治の起源 人類以前からフランス革命まで 上』(フランシス・フクヤマ著、講談社、2013年11月5日発行)

国家がどのようにして生まれたかを探求する。ヒトとチンパンジーのゲノムは99%重なっている。自然状態ではチンパンジーの凶暴性は、ニューギニア高地の人間の男による襲撃行為と似ている。人間の方がチンパンジーより残虐である。人間は言葉をもつことで社会組織を作った。

人間の社会組織の原始形態は部族型。狩猟採集民は群れの段階、農耕社会で部族性が始まった。宗教と血縁が大きな影響力をもつ。部族社会は群れよりも軍事面では強い。戦争を通じて国家が成立する。

国家以前の部族社会と比較して、国家社会の違いは:

第一に、王、大統領、首相といった中央集権的権威の源をもち、この源は階層構造の従属者に権限を委譲する。

第二に、権威の源は合法的な強制の手段を持ち、部族や地方が国家から分離するのを防ぐ。

第三に、国家の権威は領土内にだけ通用する。

第四に、国家は部族社会と比べて階層的である。

第五に、国家は宗教信仰によって正当化される。

ホッブスは、人間の自然状態は万人に対する万人の戦争であるとする。国民は自然な自由を放棄し、国家(リヴァイアサン)は生存権を保証するという基本的な合意があるという。部族社会から、社会契約に自然に移行して初期の国家が生まれたとは考えられない。部族社会は平等で部族の中では自由である。国家は強制的で威圧的である。

中国では秦が紀元前221年に初めて統一国家となった。中国古代の夏は政治単位3000、商(殷)が1800、西周は170、東周(春秋時代)は23、戦国時代が7。戦争によって国家制度が進化した。

インドでは強力な国家は生まれなかった。インドでは部族同士の激しい戦いはなく、原始的な首長制集団がBC500年位まで生き残った。インドの宗教は形而上的。インドでは宗教(バラモン教)が大きな影響をもった。バラモン教のジャーティ制度とヴァルナ制度が政治制度に制限を加えた。

イスラムでは軍事奴隷制度、マムルークが生まれ、オスマン帝国はイエニチェリという奴隷軍人を重用した。

西欧ではカトリック教会による、①近縁同士の結婚の禁止、②親類の寡婦との結婚、③子供の養子縁組、④離婚を禁止したことにより、親族集団が土地や財産を代々相続しにくくなり、部族制度が消滅した。 それに代わって西欧式の封建制が伸張した。

 

『絶望を希望に変える経済学』(アビジット・V・バナジー&エステル・デュフロ著、日本経済新聞出版、2020年4月17日発行)

移民問題が一番大きな問題。移民への反対は事実を教えても変わらない。人々が考える移民の経済学は次の通り:「世界が貧しい人であふれている。貧しい人は豊かな国を目指す。そして豊かな国の賃金を押し下げて、そこの住民の生活を苦しくする。」

しかし、これは間違っている。貧しい人は必ずしも豊かな国を目指すわけではない。また、移民が来た国の賃金が下がるという証拠もない。マリエル事例研究では、マイアミにキューバからの移民が突然来たが、賃金は下がらなかったという。全米科学アカデミーの報告では、移民が受け入れ国の住民全体の賃金に与える影響は極めて小さい。この理由は移民が需要を生み出すからである。また移民が機械化を遅らせたり、既存労働者の仕事の内容を変えるからである。また、現在の移民は厳格な障害を乗り越えるため優秀な人が多い。労働市場の仕組みは難しい。米国では高度な技術をもつ労働者は貧しい州から富裕な週に移住し、低技能労働者はその逆の傾向がある。この傾向のため、1990年代から、アメリカの労働市場は技能水準で2分化されるようになった。東海岸と西海岸は教育水準が高く、内陸部は教育水準が低い労働者が集まる。

現在の移民政策は、アイデンティティ・ポリティクスである。経済学的な議論に基づくものではない。

自由貿易。経済学者はリカードの理論でほぼ全員メリットがあると考える。しかし、一般人はそうは思わない人が多い。ストルバー・サミュエルソンの定理では、労働力と資本を必要とする財を貿易するとき、労働力に相対的に有利な国は、労働力を多く必要とする財に特化するのが有利である。この結果、労働力の豊富な国の賃金は上がり賃金格差が縮小する。資本を必要とする財に特化した国では労働者の賃金は下がる。しかし、GNPが増えるので、利益を再配分すれば全員が豊かになる。この理論は労働力というリソースが自由に移動することを想定する。しかし、そうではないので、貿易によって貧困な国の格差が広がることが多い。

1991年から2013年に米国はチャイナ・ショックに見舞われた。中国の躍進によって製造業が受けた影響は通勤圏によって異なる。打撃を受けた通勤圏では製造業の雇用が大幅に減少する。非製造業の雇用も増えない。むしろ伸びが低下する。しかし、人々は動かない。中国と競合する製品の製造クラスターを多く持つ町はゴーストタウンになる。クラスター崩壊の危険について認識せよ。貿易はかなり多くの負け組を生み出す。

移民への憎悪。トランプが大統領に当選してから移民への憎悪を口にすることに抵抗がなくなった。統計的差別とは、統計データに基づいた合理的判断から生じる差別。例はアメリカでは犯罪者の中で黒人とイスラム教徒の比率が高いので、イスラム教徒をみると犯罪者とみなしてしまう。バン・ザ・ボックス法は犯罪歴を尋ねることを禁止する。すると、バンザ・ボックス法施行後に白人応募者と黒人応募者の合格率が広がった。

米国では教育水準の低い中年白人男性の死亡率が前例のない上昇、平均年齢が下がっている。絶望死が原因。絶望に向かわない人は怒りを募らせる。不平等を勝者総取りが蔓延する社会では貧富の差が拡大する一方だ。米国は行き詰っている。成長信仰をやめて、新しい社会制度をつくるべきだ。残り99%の人たちが良き生活を取り戻すカギをみつける。

現金給付を受けたら人々は働かなくなるというデータは存在しない。福祉は怠け者を生まない。負の所得税(NIT)実験では、NITで労働時間の減少はそれほど大きくはない、とのこと。貧困国ではユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)は機能するが、富裕国では機能しない。米国のランド研究所の調査によると、米国でも仕事は自己のアイデンティティを確立するに重要な意味をもつと考えている人が多いようだ。つまり失業するとアイデンティティを失う。この場合UBIでは救済できない。デンマークフレキシキュリティは今人気がある。

経済は先進国でも貧困国でも硬直的である。移動を助ける必要がある。アメリカの住宅都市開発省は「機会への移住」プログラムを1994年に発足させた。抽選に当たって富裕な地域に移住した人たちは豊かになった。変えるには政策の力が重要である。

世のなかエビデンスのない、事実や実験の裏付けのない信仰がはびこっているようだ。本書には実験に基づき新しい社会政策を提案する。但し、話題が多すぎて頭に残りにくい。

『セイビング・ザ・サン リップルウッドと新生銀行の誕生』(ジリアン・テッド著、日本経済新聞社、2004年4月23日発行)

1998年破綻処理・国有化された日本長期信用銀行長銀)の誕生から破綻処理により国有化、そして国有化からリップルウッドに買われて新生銀行として再上場するまでの物語である。

長銀は、1952年池田勇人内閣の長期信用銀行法にもとずく金融計画に沿って設立された。1970年代までの高度成長においては企業の投資資金の金融に大きな効果があった。しかし、企業が成長し内部留保ができ、また資金調達の方法が多様化するにつれて役割を失った。本来はその時点で解散するなり、事業内容を融資中心から他の事業に転換する必要があった。1985年には内部で改革案を作成したが採用されるところとならなかった。

1980年代半ばから不動産投資にのめり込む。イ・アイ・イー・インターナショナルの高橋へのじゃぶじゃぶな融資がその典型である。1989年の金融引き締めでバブル崩壊が始まると、1990年には日経平均の大幅な下落、土地価格の低下で苦境に陥る。1998年の金融システム安定化への米国からの圧力もあり、1998年秋に国有化された。

1998年秋瑕疵担保条項付きで日本政府よりリップルウッドに売却されることが決定し、2000年春に八城が社長となる。新生銀行は瑕疵担保条項を使ってそごうなどの不良債権を政府に戻す。政府との戦い。リテール分野への進出。投資銀行部門への進出。これらの結果、2004年2月19日再上場を果たす。

新生銀行の戦いは、アメリカ文化と日本文化の戦いでもあった。長銀ビジネスモデルが通用しなくなっても自ら変革できず、不動産投資というバブルに走った。当時は日本の金融界全体は同じ行動をとっていたのだが、なんて愚かなのかと思わざるを得ない。

 

『ヨーロッパ世界の誕生 ーマホメットとシャルルマーニュー』(アンリ・ピレンヌ著、創文社、1960年8月31日発行)

1935年に初稿が脱稿されたベルギーのアンリ・ピレンヌの遺作、息子さんと高弟によって完成され1937年に発行された。

第一章はイスラム侵入以前の西ヨーロッパ。ローマ帝国は地中海的性格を持っていた。4世紀にコンスタンティノープルが新しく首都となる(330年5月11日 p.10)と強まった。ゲルマン民族侵入前に侵入した蛮族はローマ化した。フン族が到来。東ゴート族パンノニアに逃走、西ゴート族ドナウ川を越えて376年帝国領に来る。ゴート族はゲルマン系。ゴート族の長アラリッヒはローマ皇帝と盟約を結び軍事長官(傭兵隊長)となるが反逆410年に死す。義弟アタウルフは帝妹と結婚する。その弟ファリアはローマ帝国盟約者となり太平洋岸に定住する許可を得る。427年ヴァンダル族のガイゼリッヒ王がアフリカに上陸する。476年プロヴァンス地方が西ゴート族の手に渡り西地中海はローマ帝国の手から失われた。493年より西ローマ帝国の皇帝は、カール大帝の登場まで不在となった。西方は蛮族のモザイクとなり、6世紀初頭には西方で皇帝に属する土地はなくなった。しかし、北部国境地帯とブリタニアアングロ・サクソン族以外は、皇帝の名のもとに統治した。帝国辺境はゲルマン化したが、その他の西方においてはローマ世界は生き残り、コンスタンチノープルのみが首都であった。ゲルマン系言語とラテン系言語の境界線で見積もれる。西ゴート王国テオドリッヒ大王はローマ皇帝の太守であり、ゴート族民は軍隊を構成するのみで、文官はローマ人だった(p.48)。ブルグンド王国(534年フランク王国に併合された)の諸王もローマ化した。東ゴート王国西ゴート王国の君主は裕福であった。蛮族の諸国家は世俗的だった。中世とは違い、司教は官職につかなかった。

ユスティニアヌス帝の時代、アフリカのヴァンダル王国の地域を奪回。シチリアの再征服。ローマ帝国の再興。しかし、ユスティニアヌス帝の没後、ランゴバルド族のイタリア侵攻。680年帝国とランゴバルド族でイタリアを分割。

ゲルマン民族侵入後も土地の所有、年貢、地租などはローマ時代と変わらなかった。ローマ時代の貨幣単位リブラは存続した。ギリシャ語世界がラテン語世界を文明の点で凌駕していた(p.99)。中国、インドからの隊商の到着地シリアがギリシャ語世界で特に活発であった。シリア人が海上運輸業者であった。シリア人の富裕な商人たちは財を築いたあとは田舎に居を構えた。東方貿易は香料、シリアの葡萄酒、中国からの絹、宝石、衣装などの奢侈品のほか、食料品もあった。香辛料が特に多く、パピルスも特徴的。パピルスはエジプトが独占的に供給。油。マルセイユは大きな国際港でときどき疫病が発生した。奴隷も取引の対象であった。戦いで捕虜になった蛮族が多い。

コンスタンティヌス帝が改革したローマのソリドゥス金貨がゲルマン民族侵入当時の帝国共通貨幣。ゲルマン民族が征服した西方世界、ギリシャ的東方世界ではともに帝国の金本位制を存続した。国王への税金は貨幣で納められた。

ゲルマン民族は新しい思想をもたらさなかった。言語は、アングロ・サクソン族を除いてはラテン語を存続させた。文化は衰頽した。教会はロマニズムの連続性を最もよく代表している。修道性の発達があった。教会は民衆に親しみやすいラテン語を用いるようになった。社会は俗人的であった。国王が教会に従属することはなかった。社会が教会に依存することはなかった。ゲルマン民族は帝国の西半分における皇帝の統治を破壊したが、ブリタニア以外ではローマ的世界が生き残った。ブリタニアでは新しい世界が出現した。

ローマ帝国ペルシャ帝国が争っていた間にマホメッドの布教が進んだ。イスラムの侵入のスピードは速く、アラビア人は信仰を持っていたためにローマ化しなかった。逆に、アラビア人はどこを征服しても自分たちが支配者となった。シリアやエジプトがイスラムに征服され、アラビアの地中海の沿岸地方に新しい世界が出現した。681年アラビア軍は大西洋岸に達する。689年カルタゴ陥落、712年イスパニアの征服を達成する。730年代にはフランク王国を侵略する。カール大帝との戦い。876年、877年回教徒のローマ平野への侵攻を防げず。

7世紀後半に西地中海は商業海運・貿易には使えなくなってしまった。8世紀は東西間の海運がなくなった。パピルスが姿を消す。香辛料は716年以後の文書に見られない。絹や葡萄酒がなくなる。金が減少。ユダヤ人を除いて、商業商人がいなくなった。ベネツィアは特殊。5世紀のアッティラ遊牧民がアキレイアを攻撃したときに逃れた人々が住み着いて始まる。

フランスはメロヴィング王朝からカロリング王朝へ。この移り変わりの間、一世紀に及ぶどん底の混乱時代があった。7世紀以降、商業の衰頽で都市制度が姿を消した。カロリング家のピピンは宮宰として支配。教会、東ローマ帝国、カロシング家のみつどもえピピンの息子カール大帝は、800年までに西欧キリスト教世界のほとんどを支配した。カロリング帝国=カールの帝国が中世の開幕となる。古代の地中海世界との断絶が生じた。逆に低地諸邦が海運で活気を呈する。9世紀にはスカンディヴィア人の文明が発達した。しかし、ノルマン人(ヴァイキング)に掠奪される。カロリング王朝の登場とともに貨幣の単位も変わる。カロリング王朝時代には公的な租税というローマ的な観念がなくなり、貨幣鋳造業者もいなくなる。職業的商人はいなくなった。市場は近くの農民と行商人、船頭だけが訪れた。ユダヤ人が特権をもって大きな商業(金、銀、奴隷、香辛料を扱う)をしていた。

中世には商業が衰頽してしまい、土地が経済生活の本質的な基礎になった。葡萄酒も確実に手に入れるにはブドウ園を手に入れて自分でつくるしかなくなった。修道院は自給自足世界となった。封建制では軍事的貴族階級は非生産的。土地をもつ農民は増大する賦役と貢租に圧迫される。国王の財政上の基礎は所領であった。メロヴィング王朝は世俗的であったが、カロリング王朝は神の恩寵による。国王官房は聖職者で占められるようになった。中世の特徴は国家を影響下に置く宗教階層である。国王は臣下から軍事的奉仕を受ける代償として封(所領)を与えた。国家は国王と封臣の契約関係に依存するようになった。

8世紀以前は古代の地中海経済があった。8世紀以降地中海は閉鎖され、商業は消滅した。9世紀前半帝国の最北部=低地諸邦は海運で活気を呈していた。この地方ではローマ帝国の時代からブリタニアとの海上貿易を行っていたローマの辺境であった。メロヴィング王朝時代にも栄えていた証拠として多数の鋳貨が発見されている。しかし、カロリング王朝時代には、フリーセント人による地中海と関係ない新しい商業圏ができた。9世紀はヴァイキンガーの文明が発達した。カロリング王朝では貨幣制度も断絶した。ソリドゥス貨幣は消滅。ローマ時代のリブラに替わって、リーブルが採用された。カール大帝は度量衡も新しく定めたが、829年には各地方で区々な度量衡が使われたと報告されている。貨幣を当初は王朝発行通貨としたが、各都市で鋳造されるようになった。920年には教会の一部は教会の刻印を押した貨幣の鋳造権を獲得した。

 

『日英海戦への道 イギリスのシンガポール戦略と日本の南進策の真実』(山本 丈史著、中公叢書、2016年11月10日発行)

シンガポールを軸にして、イギリスの戦略、日本のマレー上陸・戦争開始直前までの作戦立案過程を分析している。大東亜戦争について米国との戦争ではなくイギリスとの戦争という新しい視点に基づいている。また、日本については陸軍と海軍の作戦の違いを際立たせており、さらには、当時のマスコミや人気の著者の書籍の分析まで行っている。著者のシンガポール国立大学での博士論文として書いたものとのことだが、海外から日本を見ているという客観的な視点の良さが感じられる。久しぶりに出会った良い書籍だ。

イギリスのシンガポール戦略は、イギリス英語圏では大失敗とみなされている。一方で、日本ではあまり注目されておらずほとんど忘れ去られている。

ではイギリスのシンガポール戦略とはなにかというと、ニュージーランドとオーストラリアの対日危機意識をなだめ、またイギリス領マラヤ、香港防衛のためのものでもあった。1919年当時、イギリスはアジア・太平洋地域に主力艦を収容できるドックをもたなかったので、艦隊を派遣もできない。こうして1922年にイギリス政府はシンガポール・センバーワンに海軍基地を建設する計画を決定した。建設は遅れて1938年にようやく乾ドックが完成したが、防衛体制は弱く、張子の虎であった。

日本が1941年7月にフランス領インドシナ南部に進駐したのに対応して、チャーチルは最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」をシンガポールに派遣した。チャーチルは戦争抑止効果を狙ったようだが、失敗だった。1941年12月8日未明、マレー半島のコタバルに日本陸軍が上陸、真珠湾攻撃よりも1時間早く戦争が始まった。主力の上陸はタイ領のシンゴラとパタニである。日本軍はマレー半島西側の道路を下り、1942年1月末にジョホールバルに達する。2月15日シンガポール陥落となる。(以上、序章より)

日本は1921年11月~22年2月のワシントン会議で対米比率7割を狙ったが、6割に譲歩する。その代わりにグアムとフィリピンの軍港設備強化を防止する条項を盛り込んだ。イギリスは、日本がシンガポール軍港建設を黙認するのと引き換えに日本案を支持した。但し、その後、イギリスが1923年シンガポール軍港建設計画を公表したところ、日本国内での世論は反イギリス色が強まる。この頃の海軍は親イギリスであった。

1930年のロンドン会議の結果で、海軍は3大原則を立てる。日本の世論で、政友会が統帥権干犯を政争の具として、大きな問題が起きる。これらを巡り海軍は艦隊派条約派に分裂する。統帥権干犯問題により、政府、海軍軍令などが統合的政策をもてなくなった。満州事変はマスメディアで支持されたため政府は石原らを罰することができず、また1932年1月の第一次上海事変で対英関係が悪化した。イギリスはシンガポール軍港の建設を進めた。1936年にワシントン条約失効となる。

1920年代の日本の識字率は高く、新聞発行部数は多い。大阪毎日新聞は100万部。部数伸びる。新聞記事ではシンガポール基地建設に懸念の声が上がる。シンガポール海軍基地について論客が取り上げる。1931年9月満州事変は新聞各社の号外が売れる機会、1932年1月大阪毎日新聞は200万部となる。1935~36年危機。1937年盧溝橋事件で日華事変が始まる。1939年天津租界危機で反英論がピークとなる。

1936年帝国国防方針の改定で、南進策が打ち出され、イギリスが仮想敵国に加わる。海軍若手が強硬だが、幹部はイギリスが敵になる可能性を考えたのにとどまる。マレー・シンガポール作戦計画の起源は、年度作戦計画にある。1936年の年度作戦計画で初めて言及され、1939年度の作戦計画で姿を現す。井本熊男は1939年8月から10月までシンガポールを含む南方を旅行、その成果を1940年度作戦計画に盛り込む。1940年12月に昭和16年度陸軍作戦計画が上伸される。これらは平時の作戦計画であり、実行を意味しない。

1940年夏、ドイツ軍の欧州席捲を見て、陸軍は南方作戦の実行を検討し始める。陸軍は対米作戦は考えなかった。南方武力行使は資源を獲得する考えである。陸軍は英米可分と考えたが、海軍はそうではない。1940年7月27日第二次近衛内閣成立後5日で大本営政府連絡会議は「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を国策として決定する。南方武力行使に向かって一歩進む。陸軍は従来対ソ戦を想定していたが、初めて、南方武力行使(対英蘭戦)を打ち出す。1940年9月陸軍の参謀本部作戦課と南支那方面軍が独断でフランス領インドシナ北部進駐に踏み切り、米国の鉄屑対日禁輸決定となる。1940年の南進熱はドイツのイギリス攻略失敗で冷え込む。

1941年6月22日独ソ戦開始で、陸軍は独ソ戦、海軍は南進論に傾く。7月陸軍は関特演を実施する。しかし、ソ連の兵力が減らず、ドイツの攻勢も膠着したのを見て、南進短期決戦策になる。フランス領インドシナ進駐で、米国の完全禁輸を招く。第三次近衛内閣はアメリカと陸軍の板挟みで身動き取れず総辞職。東条内閣となる。

『イギリス海上覇権の盛衰 シーパワーの形成と発展 下』(ポール・ケネディ著、中央公論新社、2020年8月10日発行)

下巻は、第7章から実質は第12章まで。終章があるが簡単なまとめ。

マッキンダー1904年「歴史の地理的転換」でコロンブス以来の征服の時代が終わり、社会の力の激発のすべては閉じられた環境で起きる。ロシア中央部(中央アジア)が再び世界の中軸地帯となると予言する(p.21)。ハートランドと呼ばれる。ロシアとアメリカが2大勢力となるだろうと予想された。

19世紀の最後の30年で工業力ではほかの国がイギリスを追い越した。こうなったのはイギリス自身が安逸に過ごしたことと、イギリス資本の投下が外部に向けられていたということも原因である(p.27)。大規模な陸軍の組織化もイギリスの強国としての地位を低下させた(p.48)。

19世紀末からイギリス以外の多くの国(フランス、ドイツ、ロシア、イタリア、アメリカ、日本)が海軍を強化した。アジアでは1902年の日英同盟によりイギリスは中国拠点を減らす(p.68)。日英同盟は1911年更新。1912年には海軍はドイツに対してのみ対抗する。フランスとの協定。

1914年の第一次世界大戦塹壕戦。ドイツ海軍は地理的に不利すぎてまともに英海軍と戦えない。唯一の艦隊同士の戦いはユトランド沖海戦。戦争直前に長距離高校可能な潜水艦が登場。1914年にはUボートで英国の巡洋艦が沈められる(p.118)。ドイツ潜水艦と連合国商船隊の戦いとなる。近代戦争はコストが莫大となる。イギリスの日本への依存が強まる。アメリカへの大きな借金ができて、イギリス経済の力が落ちる。

1919年から39年の戦間期に凋落する。イギリス海軍が1919年に航空母艦12隻持っていたとある(これは驚きだ。 153ページ)。米国によるワシントン会議英米、日、仏・イタリアのトン数規制、日英同盟の廃止と英、米、日、仏の四か国条約。

イギリス戦時内閣の委員会は1917年に航空作戦が遠くない将来主力となり、古い陸軍作戦、海軍作戦は重要でなくなると述べた(p.174)。参戦国の本土深くを攻撃できるエアパワーの登場。1931年日本による満州支配始まる。1933年ヒトラー政権始まる。イギリスは空軍力の増強を図り、1930年代に空軍予算が最大となる(p.182)。

第二次世界大戦の勝利はアメリカに依存する結果となり、イギリスにとっては幻想であった。

第12章にはロシア海軍の戦力についての記述がでてくるが、原著は1976年に書かれたのだから、ロシア海軍という存在があるとは思えない。ソ連海軍ではないだろうか。しかし、プロの翻訳家がそんな誤訳をするはずはないような気もする。1976年書かれた本でソ連海軍ではなく、ロシア海軍と書いていたとすると大変な先見の明ともいえる。