『明智光秀 正統を護った武将』(井尻 千男著、海竜社、2010年6月2日発行)

信長をニヒリストとして位置づける。正親町天皇に退位を迫りつつ、新しい幕府を開こうとしない信長のやっていることを見ると、安土に城を築いたのちは都を移して専制独裁統治を企んでいたということになり、これは保守主義者である光秀らにとっては看過できない事態になったという説である。

信長は安土に城を築き始めたときから京都を見捨てた。安土城を築き始めるのは天正4年、天主閣の着工が同5年である。それ以前、安土での支配の構想ができていた。天正3年11月には岐阜城家督を長男・信忠に譲った。

井尻説では、天正9年の馬揃えも退位しない正親町天皇に対する威嚇ということになる。信長の左大臣就任辞退は天皇の権威を貶める行為であり、武士としてあるまじきということだ。

歴史の中で自分の本当に大事なことは記録に残さないことが多いので、資料による実証を求める歴史学では真実に迫れない限界がある、という。確かに、そうかもしれない。

井尻説は成り立つ可能性はあると思うし、それなりに共感する点もある。しかし、一方、あまりにも想像による部分が多く、妄想として片づけることもできそうだ。ちょっと調べると、井尻説の前提である信長が正親町天皇になんども譲位を迫ったということ自体も歴史的に確かかどうか不明なようだ。