『IMF 世界最高司令部20ヶ月間の苦闘 上』(ポール・ブルースタイン著、楽工社、2013年12月2日)

IMF通貨危機対処に関するドキュメンタリーである。上巻では、IMFという組織の歴史やスタッフ教育などから始まっている。

IMF世界銀行は1944年のプレトンウッズ体制としてつくられたが、ドルは固定相場制が維持できなくなった。

IMFのスタッフ教育は、IMFからの融資と引き替えに財政支出削減、通貨切り下げを要求する従来型のパッケージを想定する。こうしたパッケージは、経常収支の危機に対するものである。1990年代からは、資本移動の自由化で、巨額のお金が国境を超えて、速いスピードで流れる電脳投資家が優勢となる。彼らがパニックを起こして資本を引き上げると資本収支危機となる。どこかでデフォルトが起きると世界に感染する。IMFは資本収支危機への処方箋をもっていない。この時代にIMFが金融の安定性を保てるのか。

IMF内部での意見の違いはあるが軍隊のように意見の統制は保たれる。G7財務省代理会合(G7D)の影響力が強い。特に米財務省との戦いもある。IMFのパッケージは痛みを伴うので、多くの場合、当事国はIMFの救済策の受け入れに抵抗する。

次にアジア通貨危機ドミノ倒しに対する対応についてのレポートがある。アジアで海外資本の最大の提供者は日本の銀行。

1997年7月タイの通貨危機

1ドル=25バーツの固定相場制での経済成長。1995年半ばドル高で、貿易赤字。また、短期資本が集まるが投資先少なく、お金は株や不動産に流れ過剰融資となり、金融分野に不良債権が貯まる。崩壊寸前の金融機関に中央銀行がテコ入れ。しかし、1996年時点では危機を予測できず。ヘッジファンドのバーツ攻撃、バーツの固定相場制放棄、タイは通貨防衛のために1997年5月に資金が枯渇。貿易外金融送金を停止してヘッジファンドを撃退。しかし、銀行・企業がバーツを売り始める。バーツ下落のヘッジしていないと破産。タイは当初IMFの助けを拒む。IMF主導の救済策が発表されるとさらにバーツが下がる。1998年初め1ドル56バーツとなる。タイの政権が変わって金融システム整備し直しの決意が明らかになって回復し始めた。1999年のIMF報告では、タイに過度の財政緊縮を求めたことでタイのリセッションが悪化したことを認める。

1997年10月インドネシア通貨危機

スハルト政権30年間の経済運営は素晴らしかった。しかし、金融システムに問題が溜まる。国有銀行の大量の不良債権。危険な状況を信じない。1997年8月ルピアをドル固定から変動相場制に移行。ルピア下落のヘッジしてない債務者達。ルピア下落の悪循環が始まる。1997年10月IMFミッションを予防的に派遣。IMFは反KKN(汚職・腐敗・縁故)の構造改革要求を出す。IMF世界銀行アジア開発銀行間の争い(患者が死のうとしているのに医者がケンカしている)。11月1日IMFプログラムは16銀行の閉鎖と引き替えに330億ドル融資。銀行閉鎖は取り付け騒ぎに発展する。ルピアからの資本逃避。中国系。中央銀行から銀行への資金投入はルピア下落の圧力となる。取り付けはやまず。

ルピアのレートは、1997年夏の1ドル2400ルピアから1998年1月の1ドル15,000ルピアに下がる。1998年の生産は14%以上縮小。1997年就労者の15%が失業、賃金は30%~40%下落。1998年5月1000人以上死ぬ流血事件でスハルト辞任。2001年まで続く経済不振。

1997年10月~11月韓国の通貨危機

韓国繁栄。外国企業との大きな違いは借入金(負債)が多いこと。海外銀行からの借入金が多い。1997年初め韓宝鉄鋼破綻。財閥・企業グループの破綻が続く。しかし、1997年10月15日のIMFミッション年次報告は危機について述べず。11月上旬にアジア経済危機が到来。電脳投資家が逃げはじめる。11月初旬1ドル915ウォンから11月10日1ドル1000へ、ウォンが下落はじめる。使えるドル準備金の不足、短期債務が大きいため銀銀行が資金不足でデフォルト起こす可能性大。11月下旬IMF救済ミッション始まる。12月3日韓国の痛みと重荷と引き替えに、IMFなどから550億ドル以上のパッケージという合意。しかし救済策は失敗に終わった。

反対論者。

12月には、ウオンが急速に値下がりする。12月12日1ドル1,712ウォン。貸し手の銀行が信用枠の取り消し、短期融資の借り換え認めず即時返済を求める。クリスマスイブに、救済策として、主な銀行が協調して、融資引き上げを停止した。この秩序の立て直しで漸く解決する。