『危機と決断 前FRB議長ベン・パーナンキ回顧録』(ベン・パーナンキ著、KADOKAWA、2015年12月25日発行)

1913年連邦準備法、1914年連邦準備制度誕生。12か所の半自治的な連邦準備銀行を置く。形式上は民間金融機関でそれぞれは独立。各準備銀行の総括、連邦準備制度の運営は連邦準備制度理事会FRB)が行う。FRB理事は7名で上院の承認を経て大統領が任命、任期14年。議長は理事の中から選ばれる。任期は4年。

連邦公開市場委員会FOMC)は米国債の売買量を決定、メンバー19名(FRB理事と各準備銀行総裁)で議決権は12。会合は年8回。

1977年連邦準備改革法でFRBの目標は、雇用の最大化と物価の安定に設定された。また、FRBは金融機関の監督・規制の役割がある。

米国経済

2001年ドットコムバブル崩壊・株式市場急落で後退、2001年3月~11月8か月景気後退。

2001年1年間でFF金利を6.5%から1.75%に下げる。2002年は雇用なき回復。住宅価格が急上昇したが、インフレ率は低く、デフレの可能性が出てくる。失業者は増える。

2002年11月デフレは起きるかという講演でヘリコプター・ベンのあだ名が付く。

インフレターゲッティングについて語り始める。

2003年はデフレの懸念。景気回復策。2003年6月FF金利1%。2004年景気回復。2004年6月FF金利1.25%に上げる。2006年に金利4.5%まで上げる。失業率4.7%、インフレ率2%を少し超える。

2000年代住宅金融の発展=証券化。住宅市場の過熱が報告される。住宅価格が上がっている間は良いが、突然下落したらどうなるかを考えていない。住宅価格が高騰したのは金融政策だけによるものではないだろう。

2006年春から2009年の3年で米国住宅価格は30%以上下落、2012年まで回復せず。ローンの返済滞納・家屋差し押さえは2005年秋6%未満から2009年末に30%超となる。

2006年2月1日FRB第14代議長となる。

2007年3月住宅市場は実質的修正局面に入ったと上院で報告した。実体経済は4%近い成長。失業率は低いまま。ロジック(雇用の減少、個人消費実体経済に反映する)が誤り。計算上はサブプライムローンが異常に高い確率で債務不履行になっても、その結果起きる金融損失は世界の株価1日の下落分より少ない。しかし、金融システムを不安定にした。昔風の金融恐慌の引き金になるとは予想できなかった。

2007年8月9日BNPパリバが米国サブプライムローン担保の投資ファンドから投資家がお金を引き出せなくした。サブプライムローン担保証券を誰も買わなくなったため。

銀行間取引は、短期で保険なしの資金調達でホールセール・ファンディング(WF)といわれる。銀行預金保険のない時代のリテール・ファンディングと同じく、取り付けの可能性がある。危機の最中に問題になったWFはCPまたは買戻し条件付きの契約(レポ)。CPは無担保で信用のみ、ABCPという資産担保CPも発展。レポは担保有。担保能力は格付けによる。

2007年8月短期金融市場でパニックが始まる。その前に7月31日ベアー・スターンズの二つのファンドが倒産した。7月後半にはドイツのIKBが設立したラインラントが失敗、IKBは倒産の淵に立つ。

8月16日カントリーワイド社の危機。同社は米国内不動産ローンの5分の1近くの資金源だった。バンク・オフ・アメリカが最終的に買収。

9月14日イングランド銀行ノーザン・ロックに融資。2008年2月ノーザン・ロックは政府所有となる。

2007年11月市場はローラーコースターのように上がり下がり。金融機関は大規模な損失を計上。SIV(簿外投資目的会社)が2007年第2四半期から資金枯渇・2008年にはすべてのSIVが消滅した。

2008年3月ベア・スターンズFRBが300億ドルを融資。最終的にベアーはJPモルガンが買収。JPモルガンFRBの支援がないとベアを支えない。

ファニメイ、フレディマックへの融資。

2008年9月14日日曜日でリーマンは買い手が現れず、破綻から防衛する方法無し。9月15日にはメリルリンチも事実上破綻。

2008年9月16日AIGに最大850億ドル融資を発表。