金(ゴールド)が語る20世紀―金本位制が揺らいでも – (鯖田 豊之著、中公新書、1999年3月発行)

20世紀初頭から終期まで。金本位制の時代から、金本位制がなくなって変動為替制の時代に至る激動を中央銀行金保有量、為替レートの変動などの視点でまとめている力作。

1937年3月9日に始まった第一次現送は円安と輸入増加による外貨準備不足のため、金を現送して急場をしのぐ。その後、1941年2月まで4年間日本は米国まで約600トンの金を現送してドルに換えて石油や軍需物資などを買付け。戦う相手から軍需物資の多くを輸入しながら開戦するとは。勝てるはずがないことは子供でも分かると思うけど。

イギリスでは1816年純金113.00162グレーン(7.3225049グラム)を含むソブリン金貨を鋳造し1ポンドとした。金本位制の始まり。ドイツは1871年、欧州各国は1870年代に、1897年に日本とロシア、2000年に米国が金本位制に移行した。日本は日清戦争の賠償金で得た金を元手とした。米国は建国以来金銀複本位制を採用、大統領選でマッキンリーが勝利して金本位制に移行した。第一次世界大戦勃発までは国際金本位制が理想的に運営された。

1899年に英国で日本の期間55年の4%利付英貨国債を起債。初の外債。1902年日英同盟成立。日露戦争では高橋是清をロンドンに派遣して英貨国債を発行した。日露戦争中に調達された外貨国債は8200万ポンド純金換算で600トン445キロ。国内債は360トンに過ぎなかった。

1914年7月第一次世界大戦勃発でヨーロッパ各国が金との兌換を停止。日本は輸出増で金・外貨準備が大幅増加。米国は9月7日付けで金輸出禁止。日本も9月12日金輸出を禁止して金本位制が総崩れとなる。

ヴェルサイユ条約調印の20日ほど前の1919年6月9日、米国政府はロシアを除く地域への金輸出を解禁。ドルと金との兌換も復活。ドイツは敗戦により天文学的賠償を求められるが、支払いできず。物価は一兆倍のインフレ。1レンテンマルク=1兆マルクで紙幣切り替えで漸く安定。さらに1ライヒスマルク=1レンテンマルクに切り替え、1ドル=4.2ライヒスマルクで1924年8月金本位制に復活。イギリスは1925年4月に旧平価で復帰。旧平価での復帰はデフレ政策強行になる国が多かった。

日本は1923年9月関東大震災発生。輸出不振・輸入急増で貿易赤字・海外の準備金不足となる。震災手形処理で1927年3月片岡蔵相東京渡辺銀行発言で第一次金融恐慌(3月15日~23日)発生。1927年4月には鈴木商店台湾銀行問題で第二次金融恐慌。取り付け騒ぎが起きる。

1929年10月国際決済銀行(BIS)設立。金本位または金為替本位制で通貨安定国が参加。1929年7月浜口内閣は金解禁早期断交決意表明。緊縮財政で輸入抑制、円高に。1930年1月旧平価100円=49.85ドルで金本位制に復帰。日本では円を12%切り上げに相当し、金解禁で超デフレとなる。

1929年10月ニューヨーク株価大暴落。世界貿易の縮小。ドイツからの資金引き上げで金本位崩れる。ヒトラーの台頭で賠償はうやむやに。米国の連合国への貸し付けの返済もうやむやになる。

1930年ロンドン軍縮会議、4月22日調印。5月借り換え外貨建て国債発行。年利5.5%、利回り6.2%。英米の引受団は悲観的だったが、応募率は高く、人気だった。統帥権問題が発生。11月浜口首相狙撃。1930年名目成長率-9.9%、実質成長率+1.1%、卸売り物価-17.7%。31年と合わせて物価下落は-35%。

1931年7月ドイツのダナート銀行休業で金融恐慌発生、ポンド危機となり、英国からの金の流出で英は9月に金本位制を停止。デンマークなど北欧3国も離脱。

1931年9月満洲事変。東証株価暴落。横浜正金銀行に金輸出禁止を見込む投機的な先物のドル買い殺到、11月4日以降実需のドル買い以外応じないとし、ドル売りを停止。井上蔵相とのドル買い攻防戦。閣内不一致で若槻内閣が崩壊し、犬養内閣となり方針変更。12月13日金輸出再禁止、為替の騰落は自然に任せるとし、年末に100円=34.5ドルと30%の円安となり、ドル買い筋が大儲け。33年の外国為替管理法で思惑取引が禁止されるまで円安続く。

米国は1933年2月から預金取り付け騒ぎ。1933年3月ルーズベルト大統領就任。金本位制を停止。金の買い上げ価格を吊り上げていきドル安にしてインフレを起こし物価上昇で景気回復を目指す。「金準備法」で国内では金兌換せず、海外の中央銀行とは純金1トロイオンスあたり35ドルと手数料で交換を認める。国際収支の決済尻に金を利用する。IMFに引き継がれ1971年のニクソンショックまで続く。

1945年末IMF国際通貨基金)成立。加盟国の通貨をドル(金)に固定する。1ポンド=4.03ドル。1947年ポンドの交換性を回復するとたちまち売られる。1949年1ポンド2.80ドルに切り下げ。西ヨーロッパ諸国も調整的平価切下げ。日本占領軍は1949年4月から1ドル=360円とする。

1950年6月25日朝鮮戦争。1951年対日平和条約。戦前債務の処理方針を確定。円建ての内国債は戦後インフレで紙切れ同然となるが、外債はそれほど減価せず。戦前外債のうち償還が最も遅かったのは1910年6月1日発行の第3回4%利付英貨国債で、1985年6月1日に全額償還となった。

1952年5月日本はIMFに加盟。1960年非居住者の経常取引で日本円の交換回復。1964年IMF協定8条国に移行し、居住者が日本の通貨を自由に外貨と交換可能となる。

1956年から57年のスエズ動乱で日本経済の石油輸入という弱点が目立つ。海上運賃高騰対策としてのマンモスタンカーの建造。臨海コンビナート。高度成長は労働力不足、消費者物価上昇、土地価格高騰などインフレマインドを広げる。

1968年から国際収支黒字定着。

1960年代にインフレでドルの購買力が落ちて、金の公定価格維持が困難となる。ドルの過剰に対して金が不足。1968年3月ロンドン金市場の市場価格と公定価格の二重価格制を認める。国際的投機資金の増加で通貨不安がイギリス、ドイツ、フランスで起きる。

1960年代末日本は1ドル360円維持で黒字減らしに奔走する。1971年4月ドル売りマルク、円などを買う投機が大きくなり、ニクソンは8月15日外国公的当局のドルと米保有ドルの交換を一時停止する宣言。IMFへ事後通告。日本政府は円360円維持を固守してドル売りに立ち向かい、多額の為替差損を生む。円切り上げアレルギーが問題。

1971年8月28日ドル円暫定変動相場制へ。12月ドル金の平価切下げ。スミソニアン博物館で第4回G10会議で1ドル=308円の固定相場で決まる。±2.25%許容。1971年6月沖縄返還調印、1972年5月実施。1973年2月欧州でドル売り激化、東京市場に波及し、スミソニアン合意維持不可能となり、2月10日東京為替市場閉鎖。変動相場制移行を決める。2月14日から市場再開で一時1ドル263円まで上昇。3月11日~16日米ドルに対して主要国は変動相場制となる。秋まで1ドル264円~5円で推移。pp.303-314

1973年10月第4次中東戦争で第一次石油ショック消費者物価指数15.9%上昇、田中内閣。総需要抑制で公定歩合9%。74年も物価上昇2桁。春闘ベースアップ率32.9%。75年物価上昇鎮静化。経済成長5%時代となる。