『検証 バブル失政』(軽部 謙介著、岩波書店、2015年9月25日発行)

本書はかなりの部分が日銀の金利政策の話になっている。日銀は当時は大蔵省や政治からの独立性が低かった。

1985年9月22日プラザ合意。円やマルクを上げて、世界貿易の不均衡を調整する。1986年4月19日、米国の公定歩合0.5%引き下げに協調して日本も公定歩合引き下げ。1,3,4月の連続引き下げで、3.5%という史上最低水準となる。既に都心の地価は84年22%増、85年31日%増、86年54%増(1月1日公示価格)。

1986年5月。円高不況が叫ばれる。米国の利下げ要求。地価上昇。戦後3回目。夏、日銀は利下げを断りたいが、周囲の圧力が大きい。10月31日日共同声明で利下げ発表へのシナリオ。3%に利下げ。86年11月11日1兆4千億の補正予算。地価上昇は金融政策にありと認識していた。

1987年1月銀行の自己資本規制が米・英で合意。邦銀対策。2月20日公定歩合2.5%へ下げる。為替安定のため。臨時政策委員会では金融緩和の副作用が指摘された。ジャパンバッシング。株式含み益を自己資本に組み入れる交渉。

1987年4月米の半導体をめぐる対日報復関税発動。日本の黒字大国絶頂期。4月円急騰140円。円高不況。土地や株などの資産価値がどんどん上がる。大田区武蔵野市は地価100%上昇。米国・大蔵省から利下げの圧力が大きくなる。短期金利低下のためのオペレーションを日米共同声明に盛り込む。5月29日超大型補正予算。景気は底を打っていたのでToo much too lateでバブルの後押しになった。

1987年6月ベネチアサミット。ベーカーから金利引き下げ要求。マネーサプライは二桁増になる。金融緩和の副作用として株・土地・債権などの値上がりが大きくなっている。資産価格はアップしても物価は上がらず。金利引き上げは景気抑制のため、大蔵の了承を得るのが難しい。87年9月米国はグリーンスパン金利を上げた。日銀も公定歩合引き上げを準備する。10月19日ブラックマンデーで米株暴落。日経平均も3800円下げ。金利引き上げできず。日本ではブラックマンデーは短期間で回復し、マネーサプライが増え、資産価格は上昇。しかし、物価は上がらず。資産邦銀行対策に、米英主導でバーゼルBIS議論のスタート。株式含み益を自己資本に算入する考えは世界に受け入れられず。交渉の末、自己資本への株式含み益45%参入で日英妥協。自己資本8%。11月19日バーゼルBISで合意。90年代には8%割れに追い込まれるケースを生む。経済の振幅を大きくした。

1988年竹下総理。物価が安定していたため利上げが通らない。内需振興は国際公約で利上げが内需抑制となり公約違反。大蔵省は土地価格は土地対策で対応すべきとした。日銀の調査月報は「景気、物価、対外収支とも、総じてバランスがとれた展開」。88年はバブルによるユーフォリア。88年秋には土地の買いあさりなどに危機感をもつ。しかし、大蔵、通産は利上げなど問題外とした。秋の国会は消費税とリクルート疑惑で混乱。1988年日本は米国から赴任した人たちから見ると異様であった。

1989年には邦銀の米国進出が目立つ。日銀が利上げしたいが、大蔵に利上げ機運がない。4月1日3.0%消費税。5月30日利上げ決定。3.25%。その後、10.11 3.75%、12.25 4.25%に上げる。1989年地価の上昇が地方に波及。土地の値上がりが暴騰になってくる。燃え盛る地価上昇。10月3日閣議国土庁長官が地価上昇は銀行の土地関連融資が原因の一つと発言した。橋本龍太郎大蔵大臣は対応を指示すると発言。官僚の予定調和を破る不規則発言。89年は物価も2.3%上昇。銀行は次々にノンバンクを立ち上げて資金を流す。総量規制論に対して、銀行局はゼロ回答。10月27日、ノンバンク融資も土地投機にならないように審査を求める通達を出す。しかし、通達は効果がなかった。利上げから4日経った大納会で株価38,915円87銭。

1990年株価暴落。2月23日日経平均35,000円を割る。10月の通達に関わらず不動産に金が流れた。銀行本体からの融資も増えていた。地方都市の地価は異常な上昇であった。地銀・信金などで土地関係貸し出しが50%増。総量規制の是非。土田銀行局長は規制反対。海部首相は地価問題を最大の課題と考えていた。3月22日総量規制導入決定。3月20日利上げ。3月19日は株価が史上三番目の下げ。3月23日土地対策閣僚会議。総量規制の根回し。1990年3月27日総量規制の通達。通達により地価が急落し、不良債権の山を築き、金融機関の相次ぐ経営破綻となる。