『1989ベルリンの壁崩壊後のヨーロッパを巡る闘争(上)』(メアリー・エリス・サロッティ著、慶応義塾大学出版会、2020年2月28日初版第2刷発行)

1989年に歴史が終わったかに見えたが、しかし、今になって思えば本書のいうとおり1989年を、東西冷戦後の新しいヨーロッパの歴史の始まりと捉える方が正しいのかもしれない。

本書は1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊する日から数か月の期間に焦点を当て、西ドイツ、東ドイツを中心に、米国、ソ連、フランス、イギリスの政権の対応について詳しく調査した結果を整理している。政府の指導者だけではなく、東ドイツの報道官シャボウスキーの会見から、国境通過地点で起きたことまでドキュメンタリー風に臨場感をもってまとまっている。

ベルリンの壁の崩壊は、主要国の指導者が知らないところで起きたのであり、その後どうなるかは不確実であった。しかし、その後、たった3か月後の2月10日には、東西ドイツが統一される道が開かれた。東西ドイツ統一以外にも、いくつかの構想があったが、状況の変化に対応しきれずに消えた。この方向に向う、東西冷戦後のヨーロッパを創造するにあたって最も影響力があったのはコールであったとする。

ベルリンの壁が崩壊したのは、東ドイツの経済が行き詰まり国の破綻が目の前に迫っていたこと、西側と比べても大きな生活水準の格差やあることや物資の不足などに対して民衆の不満が溜まっていたためである。

壁が崩れても東ドイツには40万人近いソ連兵がなお駐留していたが、彼らが交渉力として使われることはなく、ましてや武力に訴えることはなかった。これはゴルバチョフが平和的にソ連を改革しようとしていたことによるが、ソ連や東欧の国々が経済的に行き詰まってしまっていたため対応しきれなかったという面もある。

東西ドイツの統一に伴い、ECとNATOが、東ドイツ地域へ拡大するかどうかについては、ベイカーがゴルバチョフとの会談で、「NATOの管轄権は東方へ1インチたりとも動くことはないであろう」と約束した。しかし、ゴルバチョフはこの約束を協定として残さなかった。1990年2月の事態をめぐってはロシアに怨恨が残り、2022年になってもまだ問題になっている。