『綿の帝国 グローバル資本主義はいかに生まれたか』(スヴェン・ベッカート著、紀伊国屋書店、2022年12月28日発行)

5000年ほど前、インド、ペルーで綿の繊維から糸を作れることが発見された。その後、西アフリカなどでも。5000年前から19世紀までインド亜大陸が綿製品製造で世界のトップだった。インドの綿はジャワからローマ帝国迄広く交易された。ヨーロッパでは12世紀イタリアに綿業が起きた。地中海の交易ネットワークで綿花を入手。14世紀ドイツでも綿業が起きたが、オスマン帝国が地中海貿易抑えたため綿花を入手できず消滅した。

15世紀末コロンブスなど。16世紀初頭のポルトガルのアジア貿易。17-18世紀はイギリスとオランダの在外商館貿易。1766年イギリス東インド会社の輸出総額の75%は綿製品。

18世紀戦争資本主義勃興の中核が綿となる。民営化された暴力。奴隷制。大西洋貿易。17世紀からイングランドに綿業が起きる。17-18世紀は欧州の綿業の発達は緩やか。綿花はオスマン帝国、インド、西インド諸島から広く輸入していた。1770年以前は綿布生産はインドが中心で、東インド会社が綿布生産者の直接支配を、価格支配も強化した。織り手の取り分は17世紀後半の1/3から18世紀後半は約6%に減る。

イギリスの毛織物業界は綿布輸入反対運動。インドからの輸入綿布を国産品の代替へ。1774年イングランド議会はインド製綿布の販売禁止。フランス、ヴェネツィア、フランドル、プロイセンなども同様の禁止へ。ヨーロッパの製造業者はインドの製造技術をコピー。南北アメリカやアフリカへの輸出が増える。ヨーロッパの武装した資本家が世界の綿業をグローバルに再編、1780年には、イギリスが綿業ネットワークの中心となった。

1784年サミュエル・グレッグがマンチェスターに水力紡績機を使う工場を営業開始。綿製品製造業者による産業革命が始まる。これまでの綿業ネットワークを活用。高い賃金コストを補うテクノロジーの採用。飛び杼、ジェニー紡績機、水力紡績機、1779年のミュール紡績機。イギリス製綿糸は1795年から1811年の間に50%下落、インド製より安くなる。綿布のコストも下落。イギリス綿業による輸出は、世界市場でのインドの地位を奪う。こうしたイノベーションはインドや中国では起きなかった。ダッカの織物産業の没落。産業資本主義は戦争資本主義によって育まれる。

イギリスやフランスなどの工場で増産により、綿花の需要が高まる。1781年イギリスの綿花価格は10年前の2~3倍となる。旧来の生産地オスマン帝国、インドは要求に応えられず。西インド諸島で増産が始まる。砂糖の経験が生きる。1770ー90年代が好況期。バルバドス島、トバコ島、フランス領カリブ諸島など。1780年代ブラジルも参加。1780年代は西インド諸島とブラジルの奴隷による綿花生産が世界の大半。ハイチ革命の奴隷反乱で戦争資本主義の挫折。カリブ諸島の綿花が止まる。

1780年代後半には米国ワシントン大統領など、綿花栽培が増えることが予想された。1791年ハイチ革命でフランス人農園主がバラバラになり、アメリカに来たものもいた。1793年ホイットニーの新型綿操機。1790年代奴隷の急増。1803年フランスからのルイジアナ購入、1819年スペインからフロリダ獲得。先住民の土地を奪い、綿花畑とする。大規模プランテーションでの綿花栽培で、19世紀央にはアメリカが綿花供給の中心となる。価格も19世紀初頭比で1/3程度に低下。イギリスはアメリカ製綿花依存度を下げるためインド産綿花の供給を増やそうとしたが失敗。インド産綿花は中国に向かう。エジプトでは旧体制の国家が綿花生産を増やした。

多くの国への技術の伝搬、綿製品製造業が世界に広がる。拡大の要件は、織物製造の経験、資本の入手が不可欠。また、家内工業ネットワーク、イギリスからの輸入を国内製品で代替する必要性、国家の施策や保護貿易も重要。1806年11月から1814年4月の大陸封鎖、19世紀初頭の戦争は、ヨーロッパやアメリカの綿製品製造業者に好機となった。しかし、エジプト、ブラジル、など綿業の工業化=産業資本主義が成功しなかった国もある。

工場労働力をどのように確保するか。子供、女性による産業革命。農民が土地とのつながりを失い、独立した農業を営むのが困難になったり、国家による賃金労働の法的枠組み制度化が進む。

19世紀リバプールはグローバル綿業の首都。リバプール商人は綿の帝国の核心。綿花仲買人が必要条件に応じて綿花を探す。1841年リバプール綿花仲買人協会を設立、サンプルによる品質保証。品質基準を定める。綿花貿易商が大手集中化。リバプールのほか、ブレーメンルアーブルなど欧州の他、アメリカにも。商人が農場主に資金を用立てるようになる。信用供与システム。負債や価格に対する情報が貴重。情報のネットワークを築いて活用する能力に抜きんでる商人。貿易インフラを作るために国にロビー活動。アメリカで奴隷制と産業資本主義の組み合わせは限界に近づく。

1861年4月ー1865年4月アメリ南北戦争アメリカからの綿の輸入が止まりイギリスや欧州はパニックになる。1850年代後半イギリスの綿花の77%、フランスは同90%、ドイツ動60%、ロシア同92%を占めていた。アメリカの奴隷制による労働力確保の効率が良かった。1861年4月12日の南北戦争勃発で世界各地の生産の甚大な影響、工場停止、失業の増大。綿花飢饉でインド、ブラジル、エジプト、アルジェリアなどでの増産に必死の努力。インド綿の価格は南北戦争の最初の2年間で4倍となる。奴隷制のない綿の帝国をどのように想像するか。1965年4月和平で価格暴落。

1870~80年代イギリスの紡績業の伸び率は停滞。東西ヨーロッパ、北米を始め世界全体の紡績は伸びる。綿花需要が拡大したとき、米国の奴隷解放で綿花生産の労働力が不足する。綿花の問題は1940年代の機械収穫が採算に乗るまで、詰まるところ労働力の問題。米国の奴隷は賃金労働者となる。低賃金。分益小作制が広がる。白人自作農による綿花生産が増える。綿花の生産が回復し、アメリカが世界首位の座を取り戻す。インド、ブラジル、エジプトの生産も増えた。

20世紀に入っても綿花・綿製品産業が圧倒的に最大規模の産業。インドの辺境綿花生産地にヨーロッパと日本の輸出業者が進出、農民は作物を世界市場に販売。大都市資本が綿花栽培者と直接取引、中間業者を排し、取引コストが縮小。綿花の規格化。国家による統計。19世紀後半に工業生産による綿糸・綿布が、インドにも入り、手紡ぎと手織りが廃れた。19世紀末は社会的破綻をもたらす。世界の農村が綿花を作るようになり、食料生産が減る。南北戦争後は綿花の価格急落、食用作物が手に入らず飢餓になることも。

綿花生産が世界各地で、各国の帝国主義的政策のもとに行われるようになった。中央アジア、アフリカなど。

インドのアーメダバードに1861年蒸気機関による紡績機を導入した工場が誕生、アーメダバードのマンチェスター化。世界各地がマンチェスターだらけとなり、イギリスの綿製品製造業が衰頽する。イギリスは機械式紡錘は1860年世界の61%が1930年は34%、1932年11%となる。大陸ヨーロッパとアメリカは1930年30%、20%でピーク。日本は1930年4.3%から1937年に32%に伸びる。20世紀の綿業はアジアに重点が移る。20世紀初頭は欧米の労働者がストで労働条件を向上させる。日本、インド、中国の低コストに負ける。日本では官営工場と民営工場が競う、強い国家の存在。

1963年ビートルズアメリカに行った年、リバプール綿花協会は解体した。1960年代イギリスの世界綿布輸出シェアは2.8%となる。21世紀欧米では綿工場はほぼ姿を消した。2012年綿花栽培は中国29%、インド21%、パキスタン8%など。紡績、織機は中国が半分近い。遺伝子組み換え綿花も多い。資本と政治体制の多様な配合。資本家の力の源泉は国家に頼る能力。労働条件の改善は資本の移動に繋がる。