『検証 経済失政』(軽部謙介・西野智彦著、岩波書店、1999年10月27日発行)

1996年11月7日第二次橋本内閣三塚大蔵大臣。翌日の初仕事は大阪府三福信用組合への業務停止命令への対応だった。

1996年11月11日橋本は三塚に金融ビッグバンを指示する。橋本行革路線。大蔵はビッグバンで銀行・金融システムが大変になるという認識が欠けていた。

11月13日阪和銀行が不良債権一括処理で債務超過に。理由は大蔵省の検査で10月に、回収不能債権を一括処理の指示があったため、朝日監査法人が頭取を説得。11月21日、阪和銀行に対して、戦後初の業務停止命令。破綻処理。従業員組合が反乱。スト決行宣言、すると保険事故でペイオフとなる。適切な処理ではなかったと総括される。

銀行株一部が急落。97年1月7日から日経平均が4日連続最安値更新。金融不安。

1997年1月財政構造改革会議スタート。ケインジアン政策の否定。大蔵省は事前に勉強会。プライマリー・バランス論の浮上。歳出の切りつめが必要。

1997年2月ベルリンG7蔵相会議。日本経済の回復の足取りは確か。消費増税財政再建を乗り切れると説明。

2月日債銀の深刻な経営不安。欧米で21行を潰さないと約束。しかし、国内では大手行を潰さないとは言わず(官僚答弁)。三塚はつぶさないと国会答弁。しかし、手段はなかった。日債銀債の利回りアップして、投資不適格寸前となる。日債銀救済計画を銀行局が作成する。日債銀の資本増強による救済。

拓銀・道銀合併構想。

1997年4月消費税を3%から5%に引き上げ。財政改革、所得税の特別減税廃止。合わせて7兆円の負担増。経企庁の経済成長見通しは実質GDP1.4%を出したが認められず、1.9%となる。

医療費の増加。医療費増加は経済見通しに考慮されなかった。医療保険制度の崩壊を防ぐのに精一杯。2兆円の医療費負担増が加わり9兆円の負担増の見込みとなる。

経企庁、大蔵庁主税局、厚生省が自分の領域だけで仕事をしたため、トータルでは経済成長の見通しが間違った。

財政再建の目標年次を2005年から2003年に前倒しする(橋本首相)。財政構造改革5原則を作成。弾力条項を入れなかった。しかし、9月11日橋本は内閣改造佐藤孝行総務省長官に据えて批判されて求心力を失う。個人消費回復遅れ、97年4-6月のGDPは年率換算マイナス-11.2%に低下する。アジア通貨危機。橋本はアジア危機で日本経済が悪くなったと主張するが、霞が関はそう見ていない。

三洋証券問題。94年の経営安定策の劣後ローンの期限がくる。三洋証券を国際証券に救済合併させる大蔵のスキームは事前に漏れて潰れる。資金引揚で三洋は窮地となる。11月3日会社更生法で処理。上場証券会社初の倒産。三洋証券はコール市場で史上初のデフォルトを起こす。

北海道銀行と拓殖銀行の合併は銀行局の思惑通りいきそうだったが、破談となる。

中小金融課では、大阪の福徳銀行、なにわ銀行、幸福銀行、京都共栄銀行の四行処理。預金保険法改正で対応する。しかし、最後は失敗に終わる。

三洋のデフォルトの認識が広がるにつれて危ない先への資金放出が止まる。ターゲットは拓殖銀行。14日短期の資金がとれなくなり、破綻処理へ。15~16日で処理。蔵相に伝わったのは16日。1997年11月17日北洋銀行への営業継承。

山一証券野沢社長が長野証券局長に14日状況説明。5月には系列の大阪小川証券が自主廃業。総会屋への利益供与など不祥事続発。山一證券は証券行政のパンドラの箱で誰も手を出せない状態。12日から山一株が急落する。証券局長が19日自主廃業を指示する。11月24日午前6時山一証券廃業届け。

 11月26日徳陽シティ銀行経営破綻、仙台銀行に営業譲渡。取り付け騒ぎが起こる。日銀特融残高が10月末3千725億円から11月末に3兆8千215億円に昇る。

 海外で日本の金融行政への不信が広がる。また、クリントン政権からは財政刺激を要求するレターが届く。

公的資金への案。金融システム安定のための公的資金投入に関する宮沢メモが加藤幹事長に出される。また、渡辺喜美の案も出る。梶山案もでる。大蔵は組織解体を恐れて動けず。緊急金融システム安定化対策本部。金融安定化二法案98年2月成立。

銀行の自己査定債権は銀行のみで76兆円。

97年12月2兆円減税へ。景気の減速感が明らかとなり、その対策。橋本路線の転換。経済政策の運営は失敗だったとの認識が広がる。ツーリトル・ツーレイトという批判をあびる

日本の政府のメカニズムに問題があるのではないか? 経済政策の司令塔がない?