『専門知は、もういらないのか 無知礼賛と民主主義』(トム・二コルス著、みすず書房、2019年7月10日発行)

アメリカ人は、特に公共政策に関する無知を美徳と考えるところまで来てしまった。(p.2)それはなぜか、どこで起きているのか? を整理するのが本書のテーマである。

第3章アメリカの大学は商業主義によって学生をお客様にしている。その結果、学生が教授をしもべと考えるようになっている。1990年代から電子メールを使うようになったが、その結果はメールによる平等化である。教師へのメールはため口となり、教師への質問をカスタマーサービスへの質問のように考える学生が増えている。そして、批判的検証の訓練を受けていない、知識や専門性を重視しない人たちを社会に送り出すようになった。

第4章インターネットでどのような知識もすぐに検索できるようになった。しかもリアルタイムで話ができる。しかし、人間はたまに立ち止まって自分で考えてみる、情報を吸収して消化することが必要だ。

インターネット上のユーザーは「ネット上の文章を従来のような意味で読んではいない。手っ取り早い成功を求めてウェブサイトのタイトル、目次、要約を「大量に拾い読みする」という新しい形の「読み方」が現れつつある」。(pp.145-146)これは読むという行為の反対である。

バックファイア効果=人々は自分の間違いが明確に示されても、おのれの心の中のナラティブ(語り)を矛盾なく保とうとする努力を倍化する。(p.158)によってネット上の交流は頑固な無知という問題を悪化させる。フェイスブックツイッターはこうしたエコーチェンバー現象を強化する。(p.160)

民主主義は政治的平等の状態=一人一人が投票において同じ権利を保証されているということを意味しているに過ぎない。(p.276)

本書で書かれていることは「アメリカはそうなのか」と納得できる部分が多いが、専門家の立場からのやや傲慢な意見を感じる箇所もあった。