『紫禁城の黄昏、R.F.ジョンストン著・中山理訳、祥伝社、平成17(2005)年3月25日発行』

1912年共和国の誕生から、馮玉祥が1924年溥儀皇帝(宣統帝)を宮廷から追放するまでの13年間が主体で、その前後に触れる。1898年徳宗帝(光緒帝)が康有為の上書した改革案を実行した年から1931年満州国が出現するまで。

1898年当時、英国商人達は、まさに目の前で現実のものとなっていくロシアの実質的な満州併合。1904年から1905年の日露戦争で日本がロシアを打ち破る。

1898年以前の諸外国によるシナの領地争奪戦、それに対抗する康有為の改革案。光緒帝の百日改革。西大后による反動で失敗する。西大后は1875年から1888年まで事実上の摂政であった。1888年に光緒帝成婚と政権移譲が発布されたが、1898年に西大后が摂政に復権。1898年が清朝滅亡への曲がり道であった。

1899年義和団蜂起。1900年西大后は外国軍から逃れるため数か月西安に逃げる。1901年講和。

1908年西大后と幽閉の光緒帝が死去。同年8月10日に光緒帝の弟醇親王と栄禄の娘の王子溥儀が3歳にもなる前に皇帝を継承する。醇親王が摂政となるが器ではなく、これが清を滅ぼす決定打となった。

1910年から11年反乱のざわめき。醇親王袁世凱に頼り、裏切られる。1911年末と1912年初頭の上海での革命主義者と帝室講和会議で妥協。1912年2月12日皇帝の退位と共和国の樹立を告げる詔勅。1912年2月から1924年の冬までは首都の中心部に皇帝と大総統が居住した。

妥協案では皇帝は地位と帝号を除く政治権力をはく奪されたが、八項目の大清皇帝優遇条件により、宮廷を維持して玉座に君臨した。このほか、皇族、満州人、蒙古人、回教徒、チベット人に対する待遇を規定する。

1914年12月26日7箇条の帝室と共和国の優待条件の解釈をめぐる文書が交付された。こうした妥協案は、城壁で閉ざされた紫禁城の内側のみに皇帝を君臨させる。妥協案をうまく作らせたのは袁世凱の深謀遠慮ではないか?また内務府にも好都合だった。皇帝がまがいものの宮廷を維持することを許されたのは、内務府を存続させるための口実を与えるためだろう。こうした妥協案文書は1924年まで有効であった。

1912年袁世凱は臨時大総統に選ばれる。しかし、南京に向かわず北京に留まる。1913年3月南方の指導者宋教仁暗殺事件、7月第二革命で孫逸仙孫文)が敗れて日本に亡命。1913年10月袁世凱が任期5年の大総統に選出される。その後、終身大総統となり、新王朝の樹立に動く。1915年12月国民代表者会議で立憲君主制が採択され袁世凱が洪憲皇帝に即位する段取りとなる。しかし、12月末に第三革命が起きる。1916年2月洪憲の君主制取り消し宣言。1916年6月袁世凱死す。

1917年7月張勲による宣統帝の復辟宣言したが12日間で失敗に終わる。新任の大総統馮国璋。1918年議会は南北分裂。北京政府の大総統は徐世昌。復辟クーデター参加者に恩赦連発。1918年12月末著者への帝師就任申し入れ。

執事に会計を任せきりにしている皇族たち。親王の邸宅は没落。自分で資産を管理できないのは教育の問題。古典の学習が強調され算数は無視される。内務府が強大な権力をもつ。彼らは現状維持を好んだ。