『日英海戦への道 イギリスのシンガポール戦略と日本の南進策の真実』(山本 丈史著、中公叢書、2016年11月10日発行)

シンガポールを軸にして、イギリスの戦略、日本のマレー上陸・戦争開始直前までの作戦立案過程を分析している。大東亜戦争について米国との戦争ではなくイギリスとの戦争という新しい視点に基づいている。また、日本については陸軍と海軍の作戦の違いを際立たせており、さらには、当時のマスコミや人気の著者の書籍の分析まで行っている。著者のシンガポール国立大学での博士論文として書いたものとのことだが、海外から日本を見ているという客観的な視点の良さが感じられる。久しぶりに出会った良い書籍だ。

イギリスのシンガポール戦略は、イギリス英語圏では大失敗とみなされている。一方で、日本ではあまり注目されておらずほとんど忘れ去られている。

ではイギリスのシンガポール戦略とはなにかというと、ニュージーランドとオーストラリアの対日危機意識をなだめ、またイギリス領マラヤ、香港防衛のためのものでもあった。1919年当時、イギリスはアジア・太平洋地域に主力艦を収容できるドックをもたなかったので、艦隊を派遣もできない。こうして1922年にイギリス政府はシンガポール・センバーワンに海軍基地を建設する計画を決定した。建設は遅れて1938年にようやく乾ドックが完成したが、防衛体制は弱く、張子の虎であった。

日本が1941年7月にフランス領インドシナ南部に進駐したのに対応して、チャーチルは最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」をシンガポールに派遣した。チャーチルは戦争抑止効果を狙ったようだが、失敗だった。1941年12月8日未明、マレー半島のコタバルに日本陸軍が上陸、真珠湾攻撃よりも1時間早く戦争が始まった。主力の上陸はタイ領のシンゴラとパタニである。日本軍はマレー半島西側の道路を下り、1942年1月末にジョホールバルに達する。2月15日シンガポール陥落となる。(以上、序章より)

日本は1921年11月~22年2月のワシントン会議で対米比率7割を狙ったが、6割に譲歩する。その代わりにグアムとフィリピンの軍港設備強化を防止する条項を盛り込んだ。イギリスは、日本がシンガポール軍港建設を黙認するのと引き換えに日本案を支持した。但し、その後、イギリスが1923年シンガポール軍港建設計画を公表したところ、日本国内での世論は反イギリス色が強まる。この頃の海軍は親イギリスであった。

1930年のロンドン会議の結果で、海軍は3大原則を立てる。日本の世論で、政友会が統帥権干犯を政争の具として、大きな問題が起きる。これらを巡り海軍は艦隊派条約派に分裂する。統帥権干犯問題により、政府、海軍軍令などが統合的政策をもてなくなった。満州事変はマスメディアで支持されたため政府は石原らを罰することができず、また1932年1月の第一次上海事変で対英関係が悪化した。イギリスはシンガポール軍港の建設を進めた。1936年にワシントン条約失効となる。

1920年代の日本の識字率は高く、新聞発行部数は多い。大阪毎日新聞は100万部。部数伸びる。新聞記事ではシンガポール基地建設に懸念の声が上がる。シンガポール海軍基地について論客が取り上げる。1931年9月満州事変は新聞各社の号外が売れる機会、1932年1月大阪毎日新聞は200万部となる。1935~36年危機。1937年盧溝橋事件で日華事変が始まる。1939年天津租界危機で反英論がピークとなる。

1936年帝国国防方針の改定で、南進策が打ち出され、イギリスが仮想敵国に加わる。海軍若手が強硬だが、幹部はイギリスが敵になる可能性を考えたのにとどまる。マレー・シンガポール作戦計画の起源は、年度作戦計画にある。1936年の年度作戦計画で初めて言及され、1939年度の作戦計画で姿を現す。井本熊男は1939年8月から10月までシンガポールを含む南方を旅行、その成果を1940年度作戦計画に盛り込む。1940年12月に昭和16年度陸軍作戦計画が上伸される。これらは平時の作戦計画であり、実行を意味しない。

1940年夏、ドイツ軍の欧州席捲を見て、陸軍は南方作戦の実行を検討し始める。陸軍は対米作戦は考えなかった。南方武力行使は資源を獲得する考えである。陸軍は英米可分と考えたが、海軍はそうではない。1940年7月27日第二次近衛内閣成立後5日で大本営政府連絡会議は「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を国策として決定する。南方武力行使に向かって一歩進む。陸軍は従来対ソ戦を想定していたが、初めて、南方武力行使(対英蘭戦)を打ち出す。1940年9月陸軍の参謀本部作戦課と南支那方面軍が独断でフランス領インドシナ北部進駐に踏み切り、米国の鉄屑対日禁輸決定となる。1940年の南進熱はドイツのイギリス攻略失敗で冷え込む。

1941年6月22日独ソ戦開始で、陸軍は独ソ戦、海軍は南進論に傾く。7月陸軍は関特演を実施する。しかし、ソ連の兵力が減らず、ドイツの攻勢も膠着したのを見て、南進短期決戦策になる。フランス領インドシナ進駐で、米国の完全禁輸を招く。第三次近衛内閣はアメリカと陸軍の板挟みで身動き取れず総辞職。東条内閣となる。