『沖縄密約』(西山太吉著、岩波新書、2007年5月22日発行)

1950年代米軍は沖縄基地の強化を図り、アジア太平洋からインド洋までの南方戦略拠点として沖縄を”自由使用”していた。池田内閣は沖縄問題に取り組まず。佐藤政権(1964年11月から72年7月)は沖縄に始まり沖縄に終わる。

1965年8月19日佐藤首相初の沖縄訪問

1967年沖縄返還予備交渉。外務省は11月の佐藤訪米に向けて準備。日米間の考え方の違いが大きく、9月若泉敬による極秘ルートでの折衝開始。ロストウ大統領補佐官の提案を得て、米国のベトナム戦争支持を明確化、東南アジア援助、財政赤字を減らす対策の協力表明により、両三年内の返還という字句を共同声明に盛り込む。1968年11月19日B52大爆発で沖縄の県民運動が激しくなり、米国も施政権返還を認める方向に傾く。

1969年初頭ニクソン政権発足。米国は施政権返還のコンセンサスがあったが、日本は核の扱いも方針がはっきりしなかった。佐藤は1969年3月10日参院予算委員会で核抜き本土並みを交渉方針とすることを打ち出す。米国側はメモランダム5号、13号を立案して決定、交渉戦略文書を作成する。日本側の交渉は密使、外務省でばらばらで望む。

1969年11月21日沖縄の72年返還発表共同声明。

核密約ニクソンと佐藤の機密合意書)

・首相が声明で基地の自由使用の言質を与える(米国は自由使用を最大の目標)

財政負担

・米要求は、①在沖縄資産の最大限の回収、②返還に伴う支出はなし、③基地関係支出の新たな枠組みと恒常化。

・大蔵省と財務省の米資産買取交渉は、『昭和財政史』に概要あり。1969年9月福田蔵相とケネディ米財務長官のワシントン郊外での会談から開始。柏木雄介財務官。1969年11月10日柏木・ジュ―ディック秘密合意が原点。米国は目標額を設定、日本は積み上げ方式、日本が折れる。総額6億8千5百万ドル。日本の事情で共同声明には盛り込まれず、米は了解覚書を主張。声明発表後12月2日に覚書にサインする。

・1970年から71年にかけて細目交渉。軍用地復元補償、VOA移転補償。

沖縄返還と基地の自由使用で日米安保条約が変質した。

さらに1990年代後半の日米安保共同宣言と新日米ガイドラインでも変質した。1996年4月普天間飛行場返還計画発表と日米安保共同宣言。1997年9月新たな日米防衛協力のための指針で、米軍の活動に対する日本の支援として、補給、輸送、整備、衛生など自衛隊の共同作戦の仕組みができた。

2005年から日米軍事再編。外務省のスモールパッケージ対防衛省のトータルパッケージは、防衛省のトータルパッケージ案となる。日米軍事再編ロードマップの共同発表ではブッシューーラズムフェルドと一体化して中東を中心にしている。

佐藤政権と交渉にあたった官僚は、沖縄返還交渉にあたって米国といくつかの密約を交わしたにもかかわらず、密約はないと言い張ってきた。ところが、米国の公文書が機密指定解除になり、密約の内容が明らかになっている。経過をみるとこれらの密約は日本側から米国に頼み込んで締結したもののようだ。返還交渉の結果、佐藤首相が国民に約束したことを守れない、国民の期待に沿えない条件、あるいは選挙において不利になる条件で決着したとき、佐藤首相をはじめ交渉にあたった責任者はそれらを密約として非公開とし、国会などで嘘の答弁をしてきた。

米国では交渉記録が公文書として残されている為、年月が経つと公開される。主にこうした公文書の分析によって密約の存在と問題点を明らかにした書である。

これは典型的な例だが、日本の官僚は国民に対する嘘を平気でつき、それが習性になっているようだ。

こういうことを積み重ねていけば、政府が信用を失ってしまうのは当然だが。政府の嘘を徹底的に追及できないという国民の弱さも問題である。