『転換期の日本へ 「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か』(ジョン・W・ダワー、ガバン・マコーマック著、NHK出版新書、2014年1月10日発行)

サンフランシスコ体制とは、1951年9月8日、サンフランシスコで第2次世界大戦中に日本と交戦関係のあった48の連合国が署名した多国間の対日講和条約、および日米の二国間安全保障条約の二つの条約である。両条約は1952年4月28日発効し、その日、日本での占領が終わり、主権を回復した。共産中国・国民党政府、南北朝鮮は講和会議に招聘されず、ソ連は招聘されたが条約に署名しなかった。その後、米国からの通牒により台湾の中華民国との間で1952年4月28日講和条約を署名した。

サンフランシスコ講和は日本を近隣諸国から引き離す排除のシステムであった。

ソ連と日本は1956年10月19日共同宣言で外交関係を回復したが平和条約は未締結、日本と韓国は1965年6月22日の日韓基本条約で初めて関係正常化、日本と中華人民共和国は1972年9月29日の共同声明で外交関係を回復、1978年8月12日平和条約を締結した。

日本はアジアから引き離され、米国に追従するようになった。サンフランシスコ体制は日本に対する拘束衣であると認識するべきである。とりわけ大きな問題は次の八項目である。

・沖縄と二つの日本

・未解決の領土問題

・米軍基地

再軍備

・歴史問題

核の傘

・中国と日本の脱亜

・従属的独立

日本と沖縄の分断は、日本の政策立案者から見れば、沖縄は捨て石にしても良いというカードであった。1972年沖縄が返還されたが、沖縄がアジアにおける米軍の前進基地であるという役割が小さくなることはなかった。

日本がサンフランシスコ体制のままで再軍備すれば、アメリカの戦闘活動に実質的な参加を求められるようになるだろう。

サンフランシスコ講和が片面講和であったために日本の帝国主義戦争の歴史を率直に統括する機会を失ってしまった。日本では後悔していない保守派が権力の座に戻ったことで、厄介な歴史問題が後世に残された課題になってしまった。

日本の政治家は核に対する原則は国内の反対派に対するジェスチャであると述べてきた。核に対する日米秘密合意は、日本が核に反対する指導国になる機会を永久に失わしめた。

日米関係は構造的な不均衡にあり、日本は改憲再軍備をしても、アメリカの軍事的抱擁から抜けることができない。むしろアメリカの軍事戦略により深く組み込まれるだろう。