下巻の中心的登場人物は鄧小平である。その前に、周恩来の失脚・キッシンジャーとの別れ、毛沢東の死についても語られる。1973年11月には周恩来がいつもより毛沢東に敬意を払い、ためらい勝ちであったが、歴史家の指摘ではそのころ周恩来に対する四人組の批判が重大局面を迎えていたようだ。1973年12月毛は周に政治局で闘争集会を受けるよう指示し、政治局は周を米国と手を組んだと批判した。1974年に病院という話の迎賓館であらゆる政治・外交上の話題を避けて話をした。「毛沢東に対する究極の忠誠心を貫き通した経歴がそうした終焉を迎えることには、ひしひしと胸にせまるものがあった。」
1974年毛の三つの世界構想、①米国とソ連、②日本や欧州、③中国を含む発展途上国。核保有超大国が対立する世界を表す。発展途上国は超大国の対立を利用すべきという。
周の失墜のあとは鄧小平が登場したが、二度目の失脚となり、華国鋒が毛の後継者として指名されたが権力基盤を欠いていたために頂点から滑り落ちた。鄧小平は1977年再び復活。中国の近代化ビジョンを打ち出す。1979年、華国鋒は、重工業に重点を置き、農業生産は人民公社を基礎に5か年計画で機械化と肥料使用をすすめるというソ連方式の計画。それに対して鄧小平は、同じ年の晩餐会で、人民は自ら生産したものに対して報酬を与えられるべきと考える。重工業より消費物資の生産が重要、共産党の指示を減らし、政府の権限を分散させると語った。
ほどなく華国鋒が姿を消し、鄧小平が、晩餐会で語ったことを10年に渡って実践した。彼は中国の科学、技術、教育は先進国から20年遅れていると認めた。1978年12月の中国共産党十一期三中総会で、「改革開放」スローガンが採択され、毛沢東主義から決別した。
1979年2月の中国によるベトナム侵攻(第三次ベトナム戦争)は冷戦期の米中戦略的協力(対ソ)の背景があった。第二次ベトナム戦争は、米国が北ベトナムの背後に中ソがいると誤解したことで苛烈になった。このとき中国は米国がアジアを支配しようとしていると考えて北ベトナムを支援したが、北ベトナムはただ自国の独立だけを考えて戦ったのだ。第二次ベトナム戦争終結後の1978年6月ベトナムは中国を主要な敵として規定し、ソ連主導のCOMECONに加盟した。1978年11月ソ連と友好協力条約を締結、1978年12月カンボジアに侵攻して、ポル・ポト政権を倒して親ベトナム政府を樹立した。中国政府から見ると北にソ連の50師団、西ではアフガンのマルクス主義者クーデター、南でベトナムがソ連陣営に入るという中国包囲網ができた。このため鄧小平は外交的・戦略的な攻勢に打って出た。
レーガン、天安門事件、江沢民時代についても語られる。毛沢東は100年後に台湾を取れば良いと言い、江沢民は毛発言から23年たったので台湾をとるまで残り77年の余裕があると言ったようだ。
本書は習近平時代前で終わっているがこれからどうなるか? 最後の21世紀の中国と米国の関係についての考察は傾聴に値する。米中が対立すれば、第一次大戦に至ったヨーロッパのように、ゼロサムゲームになる。