『関東軍ー満州支配への独走と崩壊』(及川 琢英著、中公新書、2023年5月25日発行)

日本の現代史・昭和史の中で、大きな影響力をもったものが関東軍満州事変だろう。本書は、その関東軍について成立から消滅まで詳しく(初心者には詳しすぎるともいえるが)解説する。なかなか読みごたえがある。

関東軍を象徴する人物といえば、やはり石原莞爾だろう。本書で石原莞爾を辿ってみる。

石原莞爾は1928年10月関東軍参謀(作戦担当)として関東軍に赴任、11月1日関東軍作戦計画起案に着手。有事の際の作戦計画を確定する。1930年に入ると各所に時論を説いて回る。1931年5月末、「謀略に関する打合せ」、6月8日奉天謀略に主力を尽くす。

8月1日、本庄繁が関東軍司令官となる。18日午後10時20分に柳条湖での満鉄爆破事件が起きる。本庄は満鉄沿線広域にわたる出動命令を認める。10月2日満鉄問題解決案で満蒙を独立国にすることを打ち出す。10月8日錦州爆撃。1932年1月錦州占領。

1932年3月1日満州国建国宣言。奉天省吉林省黒竜江省熱河省、蒙古省(興安省)を範囲とする独立国。

1932年8月異動で荒木陸相関東軍から建国派の転出を図る。石原は陸大教官兼参謀本部附となる。林陸相・永田軍務局長になって建国派復権。石原は参謀本部作戦課長となる。1935年8月極東ソ連軍と在満日本軍との戦力差に愕然となる。1936年6月戦争指導課長となる。ソ連打倒の戦争準備計画を作る。

1935年秋宮崎正義を日満財政経済研究会の主事とし、軍需産業立案計画を進める。1937年1月満州開発5か年計画が完成。しかし、関東軍の後輩が石原を見限り始める。関東軍が石原を真似て独走、モンゴル独立へ綏遠武力工作。石原には止められず。

1937年3月参謀本部第一部長(キャリアのピーク)。1937年7月7日盧溝橋事件で支那駐屯軍に不拡大指示。しかし、陸軍中央は拡大派が大勢。拡大賛成論に敗れる。

関東軍参謀副長に転出(1937年9月~1938年12月)。自らが進めた下克上のつけを払わされる。1938年8月無断帰国、1938年舞鶴要塞司令官、1939年8月第16師団長中将、1941年3月予備役編入となる。

歴史の結果論からみると、日本の歴史の中で盧溝橋後の中国戦線拡大が滅亡に繋がったことを考えても、石原莞爾の長期戦略眼は優れていたと言えよう。しかし、人望に不足していた。