『流浪の戦国貴族 近衛前久 天下統一に翻弄された生涯』(谷口 研語著、中公新書、1994年10月25日発行)

近衛前久は天文五年(1536年)五摂家筆頭近衛家稙家の長男として生まれる。

1467年応仁の乱以後、幕府権力は衰頽する。

1530年上杉謙信、1533年島津義久、1534年織田信長、1535年島津義弘、1536年豊臣秀吉足利義輝、1537年足利義昭、1542年徳川家康、1543年顕如光佐が同時代人。

長尾景虎上杉謙信)上洛に際して、前久は将軍義輝と景虎の仲介、景虎に入れ込む。1560年9月18日越後へ向かう。景虎の関東平定に掛けたのだろうか。しかし、関東平定は失敗に終わる。失意の帰洛。前久と謙信の交流は途絶える。

永禄十一年(1568年)織田信長が将軍義昭を支援して上洛する。10月18日義昭将軍となるが、11月前久は京都を出奔する。義昭との対立か?天正3年6月織田信長の奏請で勅勘を解かれて上洛する。7年の流浪。信長は前久の利用価値を評価した。鷹と馬という共通の趣味もあり親しかった。前久の長男信尹は信長の二条屋敷において信長の加冠で元服式を行う。

天正3年9月薩摩鹿児島の島津氏へ向かう。島津家中とは長期的な友好関係をたもつ。

石山本願寺との講和の仲介役となる。天皇の勅使ではなく、信長のメッセンジャー。さらに島津大友の講和斡旋も。天正9年の京都馬揃えに騎馬で参加する。

天正10年3月5日武田攻めに従軍する。6月2日本能寺の変。出家して龍山と称する。明智勢は前久邸から二条御所へ攻撃したことなどから、信孝、秀吉に詰問される。

徳川家康を頼る。家康は秀吉にとりなして前久は帰洛する。秀吉が関白となり、近衛家は役目がなくなる。娘前子は秀吉の養女となって御陽成天皇の女御となる。豊臣家が貴族の階級を乗っ取る。五摂家滅亡の危機。信尹は秀吉の命で薩摩に配流される。

徳川家康は逆に武家と貴族を分離する方策をとる。五摂家衆議体制を創出する。