『毒の水 PFAS汚染に立ち向ったある弁護士の20年』(ロバート・ピロット著、花伝社、2023年4月5日)

1998年10月ウィルバー・アール・テナントという農場主からの依頼で始まった。32歳。

1999年6月デュポンへの訴訟開始。2000年中ごろ初公判予定。2001年1月に延期。2000年8月、開示資料から環境保護庁からの手紙。APFOを使用しているか?という質問を見つける。1999年現在APFOを界面活性剤として、テフロンの製造用に大量に使用しており、年間煙突から12トン、水路へ27.5トンを放出。固形廃棄物を地元埋め立て地に投棄。3Mが製造中止したPFOSと似ている。PFOAとPFOSは同じものの異形。APFOはPFOAの別の化合物。

PFOAはテフロンの製造に使われる。規制対象外だったのでデュポンは調査対象外として開示しなかった。

1999年10月の毒性研究ではサルが死ぬ。死はPFOAに関連しているという研究者の意見のメールを発見。

2001年10月2日に公判予定を延期。2001年3月時点ではPFOAの有害性をまとめて、全体像を州と連邦政府規制担当者に送る。

産業会は全体としてPFOSの代替物はないので、困るという。(2001/3/26ワシントンの会議にて)

デュポンは裁判の負けを悟る。2001年7月13日テナント裁判の和解。

第2段階。医療モニタリング裁判。

未規制物質のため違反を訴えにくい。通常、化学物質汚染裁判では法律的に認知された危害で苦しんでいることを証明する必要がある。しかし、今回は必ずしも病気になっていない。

デュポンの牛歩戦術。1年間遅れる。開示資料でデュポンは問題を知っていて隠していたことが分かる。

CATチーム(C8毒性評価チーム)はPFOA安全基準を150ppbとする。責任者のスターツ博士は、証言で公文書であるメモを廃棄したと述べた。

PFOAの問題は生体内蓄積性と難分解性が問題。1980年前後、最近出産した7名の従業員の血液データをみると、全員がPFOAの血中濃度が高く、7名中2名に出産時に目の障害があった。1988年には発がん性も認められた。社内の科学者と医療関係者と経営陣の対立。1984年5月の最高幹部の非公開会議でテフロン製造部門での展開への対処を決めた。医療部と法務部はPFOAの完全な除去を主張、経営側指導者は正反対の意見。

環境ワーキンググループ(EWG)への働きかけ。

2004年6月、環境保護庁がデュポンを訴える。PFOAの危険性情報を故意に隠した件。

デュポンの社内弁護士は、2000年には懲罰的賠償の可能性を法務部上司に訴えた件も明らかになり、和解に繋がる。2004年9月和解する。

和解費用のうち7千万ドルで科学調査と科学者パネルを作る。

2005年夏には、PFOA調査が世界で始まる。

2010年痙攣。

2011年科学パネルが漸く関連性の報告書を出す。証明責任が果たされる。7年間。

2012年医療パネルが始まる。2013年初回報告書。

2015年10月バートレット夫人対デュポン裁判陪審員判決で勝訴。2016年NYTで「デュポンの最低の悪夢になった弁護士」の記事にでる。

2018年10月4日化学企業八社を相手にPFAS汚染の集団訴訟開始。

【PFAS汚染】沖縄、神奈川、大阪など…全国に広がる“永遠の化学物質”の影響と対策 - NHK クローズアップ現代 全記録